卒業生インタビューvol.20

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今回は和光小学校・中学校・高等学校の卒業生で現在アメリカのプロサッカーリーグ・メジャーリーグサッカー(MLS)で活躍されているコロラド・ラピッズの木村光佑選手にインタビューしました。

木村選手は和光高等学校卒業後に渡米。ウェスタンイリノイ大学での活躍が認められ、2007年MLS史上初の日本人選手となりました。プロ4年目の木村選手はレギュラーとして活躍。昨年自身初のプレーオフ進出を果たすと、地区決勝ではMVPに輝きました。迎えた決勝戦でも先発フル出場、チームを初の全米制覇に導きました。4年半ぶりの一時帰国に際し、今までどんな学生時代を送ってきたのか、また今後の展望などについてもお伺いしました。

(聞き手:和光中学校 体育科教諭 星野 実)

「できるところまでやって来い!」落ち込んでいた私の背中を担任が力強く押してくれて渡米へ

聞き手:お久しぶりです。朝のNHK番組の『おはよう日本』でも特集を組まれていましたね(2010年12月放送)。昔の小学校時代にプレーしていた写真も出てきましたが、今までの和光学園での歩みを最初に聞かせてください。まず、なぜ和光を知ったのですか。

木村:和光の事は知人からの紹介で知り、両親がその教育方針に惚れ込んだのがきっかけです。兄の謙太、次男の私、そして三男の駿哉の3人兄弟みんな和光出身なんです。朝の通勤ラッシュでは謙太が手擦りに、私が謙太のランドセルに、駿哉が私のランドセルに摑まって流されないようにしながら3人一緒に通学していた事を鮮明に覚えています。サッカーとの出会いは小学校2年生の時。その年に開幕したJリーグに触発されて謙太と一緒に和光FCに入ったのが始まりでした。それ以降は寝ても起きてもサッカー、サッカーの毎日でした。

聞き手:それでは、小学校以降のサッカーはどんな感じだったのですか。

木村:小学校時代の和光FCに続き、中学時代もサッカー部でした。部活は週3回の練習だったのですが、自主練・朝練など、常にサッカーボールから離れられない生活でしたね。大会では都大会一歩手前までしか行けなかったですが、チームメイトと一緒にサッカーをする、その事自体が純粋に楽しかったですね。 高校時代は、より高いレベルでのサッカーを求め、トライアウトを経て川崎フロンターレユースに入団しました。

聞き手:そのユースチームではどんな練習だったのですか。

木村:週6日、20時半ぐらいまでの練習で、22時に帰宅してから食事、その後お風呂に入って就寝。また朝が来て朝練、授業、練習とその繰り返しでしたね。

聞き手:それはハードな生活ですね。ユースチームの時に困ったことはありませんでしたか。

木村:高2の終わりに足を疲労骨折してしまい、しばらく動けない時がありました。友人で手術に失敗した例を聞いていたので、手術はどうしてもしたくありませんでした。その後のリハビリ、そして何よりもサッカーができなかったのは本当に辛かったです。

聞き手:それでは、サッカー以外で思い出深いことはありますか。

木村:小学校での沖縄、中学での館山や秋田、高校での体育祭や文化祭など、よい思い出ばかりですね。他の学校とは違いは、沖縄や秋田の様に単なる修学旅行ではなく、学習旅行である事。戦争や農業、民族の事を実際に体感しながら学べる事はとてつもなく大きな経験です。
中学の館山では、みんなが隊列になって泳ぐことで一体感・達成感を味わえる。地道に泳いでいけば、前には進んでいくのです。1人ではできないこともみんなで励まし合うことでやり遂げる事ができる、大事なことを学びました。
高3では、私が進路に迷っている時に担任の大澤先生が、以前担任された佐藤琢磨さんの話をしてくれました。「できるところまでやって来い!」とプロになる事ができずに落ち込んでいた私の背中を力強く押してくれました。それで決心がついた私は卒業式を待たずして渡米したのです。

聞き手:卒業式に出ないっていうのは余程のことですね。渡米することに決めたきっかけというのは何かあったのですか。

木村:フロンターレのチームメイトに高校卒業後に留学してサッカーを続けるという選手がいました。「大学スポーツが盛んなアメリカならばで大学の4年間で勉強とサッカーを両立しながらプロを目指せる」そう話してくれた彼の影響が強いですね。プロになる夢を諦めきれず、同時にスポーツトレーナーの資格にも興味のあった私にとっては最後のチャンスでした。

まずは大学探し。大学サッカーリーグ1部リーグに所属し、かつスポーツトレーナーの勉強ができる大学を16校に絞り、自分のよいプレーを集めたハイライトVTRを作って送りました。よい返事をもらえたのはわずかでしたが、その内の一校がウェスタンイリノイ大学だったんです。これが高校3年生の12月。ただし、英語を全く話せなかった私は9月に始まる新学期までに語学学校に通い、GMATとTOEFLで規定の点数を取らなければなりませんでした。その語学学校のスタートが1月下旬だったので、高校の卒業式に出る事ができなかったんです。実はその頃、9.11のテロ事件があったりして、学生ビザの審査がとても厳しく、12月に申請した時点では「発行まで3ヶ月くらいかかる」と言われました。それでは間に合わないという状況だったので、毎日大使館に電話やFAXをしてお願いし続け、何とか出発ギリギリに発行してもらったというドタバタの渡米でした。結局向こうへは2月に行って、そこからはもう英語漬けの毎日でした。語学学校の先生に9月には大学に入学したいと伝えたら「君の英語力では非常に難しい…」って言われました。それでも親に無理を言って留学させてもらっているし、入学が長引けばその分費用もかかる、何よりも一度やると決めたので絶対やり切る必要があったんです。それこそ死ぬ気で勉強しましたね。

聞き手:アメリカでは何を専攻していたんですか。

木村:アスレチックトレーナーです。日本の場合は専門学校になって大学卒の資格ではないのですが、アメリカではそれがきちんと大学で科目化されている。アメリカの大学は入りやすく出にくいという言葉の通り、どの授業も分厚いテキストを一週間で丸々一冊覚えるくらいの勉強量を求められるんですよ。でもそのテキストは高くてとても買えなかったんです。それで毎夜練習後に図書館に通っては覚えました。もう、あり得ない位勉強しましたよ。学部が始まった当時は20人いた同級生のうち、資格を取得出来たのは僅か3人だけでした 。
(ここで当時の時間割をPCで見せてもらいました。授業と実習と練習、合間に食事、あとは寝るだけ、というような過密なスケジュールに、インタビュアーの星野先生も唖然でした。)

聞き手:大学時代のサッカーはどんな感じでしたか。また、どうしてプロになれたのですか。

木村:最初こそつたない英語でのコミュニケーションだったので色々と大変でしたし、速く強いアメリカサッカーに慣れるのにも少し時間が必要でした。その辺りは根性と練習量でディスアドバンテージを埋め、2年生からキャプテンを務めました。チームメートにも恵まれ、チームは史上初で全国大会に進出し、個人では地区代表にも選ばれました。
プロ入りのきっかけは、ある試合でたまたま相手チームを見に来ていたコロラド・ラピッズのスカウトの目に留まり、ドラフト会議で指名されたのがきっかけでした。

聞き手:中学時代もリーダーをしていましたよね。和光学園での経験が生かされているのでしょうか。

木村:そうですね。やはり行事が多く、それに積極的に参加していたのもあります。ただ私の場合、数学を一つ例に挙げても、なんで方程式が必要かと疑問を持ち、その歴史を調べたりする、そんな「考える根本の力」を小・中・高で学んだんだと思います。あまりにも好奇心が強すぎてのめり込み過ぎる時もあったけれど、高校で社会科の高橋 廉先生が、ヒトラーが独裁に至る理由を考える事で、丸々1時間使った事もありました。そういう事が原点だったと思います。
それはアメリカも同じで、選択問題は全くなく、考えて動く力が求められます。和光ではお仕着せや丸暗記ではない教育がありました。行事でも先生たちが決めたお仕着せのルールではなく、みんなで考えを持ち寄って討議して決めた経験が、今の私には大きく役立っているのだろうと思います。 また、社会人の方に「考える力を持った人材が欲しい…」という話を聞いた時、通じるところがあるなと感じました。
何かを達成するうえで、達成した場面を「思い描く」ことが大事だと思います。例えばイチローのヒットひとつ取っても、結果を描いてみた上で実行できるだけの器量と技術力があれば、あとはメンタル面なのだろうと思っています。

聞き手:私の体育の授業でも、サッカー部の生徒が入っていると、司令塔となって周りのクラスメイトを動かすための作戦を練らせます。
ジダン選手が出られなかった時の試合や日韓戦のハイライト、ワールドカップで中田選手が司令塔の場合の話をして、常に考えさせる授業の展開に努めています。1人上手い選手がいて必然的にマークされるようになれば、他の選手のマークが外れるということになる。そこを考えさせることを大事にしています。
ある時は、Jリーグの鈴木選手のつま先シュートでの一足を出す力だったり、宮本選手の「待つな。詰めろ。シュートコースを消せ」という部分を取り出して授業をすると、生徒たちもノってサッカーをしますね。
木村さんはサッカーにのめり込んでいったわけですが、逆に苦しかったことって何かありますか?

木村:プロではもちろん周りは上手い人ばかりで、上の人はキャリアを積んでいるので、僕たちにはなかなかチャンスはまわってこない。いくら努力をしても練習してもベンチ入りすらできなかった頃は、さすがにキツイなぁ~と思いました。

聞き手:日本のサッカーとアメリカのサッカーではどのような違いがあると思いますか。また課題は何だと思いますか。

木村:日本のサッカーは技術力がよいけれど、アメリカのサッカーはフィジカル・メンタル・スピード面で格段に違います。現在、MLSの試合は日本では見ることができませんが、日本にないものを持っているMLSの試合を日本の方にもっと見て欲しいと思います。

聞き手:今年はとても良い年になったようですね。

木村:今年は、チームが優勝しただけでなく、個人的にはHumanitarian Awardを頂きました。この賞は、その年の地域活動や慈善活動、ファンイベントなどに貢献した選手に贈られる賞なのでとても嬉しいです。私も子どもの病院に行くことで子ども達からたくさんの勇気を貰います。

聞き手:コロラド・ラピッズではもう顔と言われる選手に成長されているそうですが、木村さんの今後の夢はなんでしょうか。

木村:まずは今年MLS2連覇を成し遂げたい。そして、日本代表としてプレイしてみたいです。将来的にはスペインでプレイできるような選手になりたいと思っています。

聞き手:同じ和光生に向かって何かメッセージをお願いします。

木村:誰にも動かせない強い意志を持って、行動していってください。自ら考え、自分を信じて挑戦することが大事だと思います。
和光学園も進化しつつ、根本の部分は変わっていないようなので、ぜひこの環境を生かして伸び伸びと生活してください。

聞き手:今日はわざわざありがとうございました。今後、ますます御活躍ください。

(了)

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プロフィール

木村 光佑(きむら こうすけ) プロサッカー選手

1984年5月14日生まれ 26歳  兵庫県神戸市出身 身長 172cm、体重 70kg 和光FC→川崎フロンターレユース→西イリノイ大学→コロラド・ラピッズ 日本人唯一のメジャーリーグサッカー(以下、MLS)選手として、2010年11月21日に開催されたMLS Cupにて優勝。全米1位を勝ち取る。 2012年7月5日現在、ポートランド・ティンバースに移籍 【経緯】 小学校3年時に当時開幕したJ-Leagueに影響を受け和光FCにてサッカーを始める。 和光中学サッカー部を経て高校進学時に川崎フロンターレユースのトライアウトに合格。 同チームで副キャプテンを務め全日本ユース選手権に出場。高校3年次に怪我の影響もありプロ契約に至らず。 大学サッカーからプロへの道を探すと同時に、リハビリ期間中に知ったスポーツトレーナーの重要性からその資格を目指すようになる。 友人、恩師の勧めからその二つを両立できるアメリカの大学へ。 全く英語をしゃべれなかったが、入学願書と自身のプレーを収めた自作ハイライトビデオを20以上の大学に送り入学を取り付けた。 大学入学後は1年目からレギュラーを獲得。2年目からは3年連続で地区優勝。個人ではチームキャプテンを務め、地区代表にも選ばれた。 2007年の補助ドラフト35番目でコロラド・ラピッズに指名されMLS史上初の日本人選手となった。 持ち前のスピードと無尽蔵の運動量、そして根性で強く速いアメリカサッカーに順応。 リザーブリーグで無敗優勝した活躍が認められ、1年目にデビュー。 2年目から3年連続レギュラーに名を連ね、チームの中心選手に。 4年目の今年、自身初のPlay Offに進出するとカンファレンスファイナルでは1得点、MVPに選出されチームをMLS Cupに導いた。 11月21日、トロントで開催されたMLS Cupにも先発フル出場。延長戦の末、FC Dallasを破りMLS Cup制覇を達成。 サポーターからの支持も厚く、ファンイベントや地域の慈善活動に積極的に参加した選手に贈られる「Humanitarian Award」を受賞。 練習場を後にするのは常に最後で、オフシーズンもDenverにとどまり自主練に明け暮れる。 チーム内ではチームを鼓舞する熱血漢とムードメーカーという役柄。 2012年7月5日ポートランド・ティンバースに移籍 。

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