卒業生インタビューvol.22

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今回は和光高等学校に入学され、特に思い出深かったとご自身の自伝本『昭和ギタン』に書いていらっしゃる大鶴義丹さんにインタビューしました。大鶴義丹さんというと俳優というイメージが強いですが、現在の活動について、そして今後の展望などについてもうかがいたいと思います。懐かしいなぁ~と並木道を歩きながら、しばし当時に戻られた義丹さんからどんなお話が聞けるのか楽しみにしてください。

(聞き手:和光高等学校 地井 衣)

仲間を取り戻した、ホントに楽しかった高校時代。 培った授業や行事、仲間を通して身につけたプレゼン能力が大いに自分の中では活きている。

 

聞き手:お久しぶりです。私は義丹さんのことは良く知っているのですが、義丹さんのほうは憶えていないのではないでしょうか。確か、高木さんや堀内さん、中島さんのクラスでしたよね。
まず、手始めに現在の活動について教えてください。

大鶴:地井先生とは同じ学年でしたよね。確かに憶えています。

現在は年に1編くらい本やエッセイを出しつつ、映画制作にも携わっています。俳優、舞台監督、脚本家などなんでもします。

最近の映画で言えば、ジャニーズ所属の風間俊介くん主演の脚本や監督を手がけたりしています。『前橋ヴィジュアル系』という映画なのですが、音楽でいつか成功したいと夢見る農家の青年たちの葛藤を描いた青春ものです。その他、人気バイク漫画『キリン』を真木蔵人くん主演で実写化したりしています。

映画と一口に言っても、最近では細分化されていて、渋谷のミニシアターやキネカ大森などの中規模館で上演されるような映画を制作しています。いわゆる大手のテレビがタイアップして大々的に宣伝するような映画とはまた違った面白さがあるんですよ。最近では、機材も安く手に入るようになりましたし、機能も随分よくなっているので、それも自己表現のひとつと考えています。

聞き手:高校を出てから紆余曲折あったようですが、高校卒業後はどうされていたのですか?

大鶴:日大の芸術学部に進学しました。演劇ではありません(笑)。私はT学園のヤツらよりも偏差値が1つでもよいところに行ってやろうと思っていました。

高校在学中から俳優としてテレビや映画に出演していたのですが、30代前半になるに従って、自分の立ち位置がわからなくなったんです。20代で若ぶろう若ぶろうとするのは、現実とあわなくなって辛いな…ってことに気付いたんです。

30代を過ぎてしまえばちょっとあがくようになりました。営業活動というのか、売れなければ売りにいくようになって、質が変わってきたように思います。

20代でスタイルを決めちゃうようなところがあったのかもしれませんね。ジーンズしか着ないとか、独特なこだわりがありましたね。

聞き手:義丹さんご自身は、最近の時代をどうとらえているのでしょうか。

大鶴:バブル期を越えて不景気な時代になって来ましたけれど、舞台はこれから面白くなるかもしれませんね。豊かな時代から変わってきたので、また違った表現ができるかもしれません。

NHKの朝ドラや大河に出たら、一生食えるという時代ではなくなってきましたが、ネットが発達してきたからこその便利さが実感できるようになってきました。

例えば、夕方の奥さま番組に出た友人の告知では無反応だったのだけれど、ネットで告知するとお客さんが来てくれちゃう的な面白さは感じています。言い換えれば、ちょっと前のラジオのような魅力があると思うんです。

私の母も70歳ですが、ネットはしていて、自宅に帰ったらPCを開くような生活です。ちょっとTwitterを開けば信憑性はともかく、情報もいち早く取れますし、便利な時代になりましたね。

聞き手:一方でネットの怖さもあると思いますが、その辺はどう考えていらっしゃいますか?

大鶴:私の娘は中2になりますが、現代っ子でスマホを使っています。どう付き合っているのか? 親としては気掛かりです。和光ってそういうネットのトラブルに引っかかりにくい学校なのではないか…と思っています。

聞き手:和光でも例外でなく、ネットのトラブルもないことはないですよ。
義丹さんは『昭和ギタン』の中でT学園のことが相当引っかかっているようですが、実際のところどうなのでしょうか。

大鶴:私の場合、中学は公立でしたが、高校は最初はT学園に通ったんです。そうしたら全然世界が違っていました。ちょうど、バブル期だったので、他のヤツの財布にはいつも5万くらい入っていて、私の財布の中身は普通に700円くらいっていう世界でした。友達が作りにくい感じで、危険だったように記憶しています。お金の使い方がまるで違うんですよ。そんなのにいちいち付き合えないじゃないですか。

夏休み前だったかな、私がTVに出たということが直接の引き金でした。当時、アイドルだったK.Mも同級生で、5~6人が辞めています。短期間でしたが深い傷を負った感じでした。子どもの受験に親が疎すぎたっていうのもあります。あんな所はもう二度と行きたくないです。近くを通りがかってもわざわざ大回りして見ないようにしています。

大学検定試験がまだメジャーではなかった時代でしたから、私は悩んだ挙げ句、和光高校に入り直しました。

和光高校では仲間を取り戻した感があります。ホントに楽しかったですよ。第一、障がいをもったヤツでも平等に接する、イジめるヤツなんか居なかったですね。和光の高校時代は私にとって温かな時代でした。今でも、当時のメンバーとはしょっちゅう会いますよ。

鈴木伸男先生も、兄貴のようで、生徒と一緒にいろんなことをしてくれる一方、ガツンと言わなくちゃならないところは言ってくれるので、みんなも言うことを聞くという感じでした。そんな先生はT学園にはいなかったなあ。

聞き手:やっぱり義丹さんの中では、T学園でのことは本当に大きなことだったんですね。

大鶴:もう四半世紀にもなるんだぞ、と自分の中でも思うんですよ。でも最近、T学園で解決のつかない時間を私が過ごしているように、相手も傷ついたんだろうな、同じ時間を過ごしているんだなと思うようにもなりました。

聞き手: 和光にはそれまで来たことがあったのでしょうか。そもそもなんで知ったのでしょうか。

大鶴:私が和光に来たのは、願書を取りに来た時が初でしたね。仕事でお世話になった方のご兄弟が和光学園の卒業生で、その紹介だったんです。

この時代ってすっ飛んでいるから、気をつけないと消えていっちゃうような、なくなっていっちゃうような大事な時期です。和光の水が自分には合っていたのか、大当たりでした(笑)。うちの娘にも薦めたいと本気で思ってますよ(笑)。

聞き手:和光の魅力ってどんなことなのでしょうね。

大鶴:公立の場合は、変な型があるように思うんですよね。ここにはそれすらもなく、和光コミュニティがあるんですよ。和気あいあいみたいな…ね。

だから、音楽やファッション、デザイン系に進む人も多いですよね。隣のクラスには芸能プロダクションの社長になった人もいますよ。

クラス替えがないっていうのは画期的ですよね。高校3年間だからこそ、より深く見えてくるものがあります。シャッフルされると分からないだろうと思います。

いまだに男友達とは月一くらいのペースで飲んでいますよ。恩地が居酒屋経営してたりするので…。大人になって思ったのですが、クラスが変わらないと別れた彼女と隣の席になったりすることがあるわけですよ。気まずいじゃないですか。それだけは困りますよね(笑)。 でも、今ではそれも良い思い出でもあります。

それに当時からバイクの免許を取得するのは禁止ではなかったですよね。現在ではある種仕事の一部にもなっているので、ありがたかったです。

今は、よい大学に行けば幸せな未来がまっている…という時代ではなくなってきたと思っています。和光で培った授業や行事、仲間を通して身につけたプレゼン能力が大いに自分の中では活きているように思います。気持ち的には、勉強を片手間にずっと遊んでいた印象なのですけれどね(笑)。

友人とは、夢ばかり語っていました。何でも叶う時代だったので…。他の学校でやっている記憶させるような勉強、ただの丸暗記は、いつか抜けていく、そういう勉強をさせてちゃダメなんだと思います。

最近は何のカラーや意志のない学校って多いじゃないですか。ごく平凡に終わるってパターン。和光では違う。今でもクラス替えはないんですよね? 変わったことってありますか?

聞き手:高校では今もクラス替えはありません。変わったことといえば、選択授業の枠が昔よりずっと多くなったことでしょうか。3年になるとホームルームでやる授業は週7時間のみとかね。他には、3泊4日の長いキャンプはやめて、現在は1泊になりましたね。それでも各クラス趣向を凝らして楽しんで来ますよ。

大鶴:キャンプは実に楽しかった思い出がありますね。ご飯が作れないヤツがいたりして、雨が降ると火がつかなかったりで、自然と団結が深まりました。好きな女の子には親切に種火を持って行って感謝されたり、水で頭洗ったり、河原で体洗ったりしてましたね。
きつかったけれど、不思議と仲良くなれた行事でした。

聞き手:義丹さんの時代で印象的な授業やでき事って何が思い浮かびますか。

大鶴:高校時代の話をすると、よく憶えていて周りからは凄いね…って言われるのですが、松山先生の『フランス革命』の授業は思い出深いですね。当時、松山先生がカリーナEDって車を買ったので、カリーナよりもブルジョアである…って言ったら本気で怒られました(笑)。

北山誠先生の日本美術史で京都に行ったことも印象深いです。それから、狛江の辺りを車で走ると断層があって、これか大澤さんが言っていたのは…などと思い起こしたりしています。

鈴木伸男先生がフィンランドや、デンマークの話をしてくれたのもよく覚えています。あの頃にはピンとこなかったのですが、今になってみると共感できるようになりました。 そうそう、ここに来る前に食堂も覗いて来たのですが、当時、食堂で「(ラーメンの)麺硬め」ってはじめに言い出したのは私なんです(笑) 。

高校の3年間で映画を作ったり、シナリオを書いたりしました。あの頃のビデオを観ても、堂々とできる!そんなことを和光で学んだ気がします。

聞き手:最近は、教員も生徒の発言から学んでいくような授業が多くなりました。和光生になにかメッセージはありますか。

大鶴:今いる(ある)自分の大事さを感じて欲しいですね。私の場合、一度失ったからこそ分かるんですけど、この3年間はもろいものなんですよ。だから自分で磨いたり、大事にしていってほしいですね。決して優等生でいるというわけではなくて。

聞き手:これからどういう風にお仕事をされていきますか。

大鶴:基本的には今までの繰り返しですが、台本をもらってその通りにやっていくっていうのでは物足りない。自分のできることで、これからも飯を食っていくのがいいと最近思いますね。

高校時代はフェラーリに乗れるようになりたいと思ったこともありますが、あれは違うかな、と。

荻窪に「丸長」という昭和ラーメン史に残るような古いラーメン屋さんがあるんです。宣伝も何もしないけれどお客さんが入り続けている。そこの親父さんは、変に頭を下げず、こびへつらうこともなく自分のラーメンを作り続けている。自分を店にたとえるなら、そんなお店でありたいなあと思うんです。 自分の中から湧き出てくるもので食べて行けたら幸せですね。

聞き手:今日は懐かしい話も聞けて楽しかったです。今後も健康に気をつけてご活躍くださいね。

《今回のインタビューを終えて》
インタビューを終えて大鶴さんと地井先生 在学中には大勢のお友達とつるんで学校内を闊歩するその様子に、「こちらのほうが小さくならなきゃならないのかな」と思わされることもしばしばでした。その大鶴さんの「先生にはよく怒られたと思います」という言葉に、ああ、あのころは生徒も教員も「マッチョ」だったんだなあ、とその当時を思いました。今は生徒も教員も「マッチョ」な感じではなくなりましたが、「生徒とともに考えていく」という基本的なところは変わっていません。

彼の「こびたり、へつらったりせずに、自分から出てくるものでご飯を食べていきたい」という現在の生き方にとても共感しました。和光に籍を置かれたのはたったの3年間でしたが、その和光の3年間でこの生き方につながるものを得られたのだったらうれしい限りです。

大鶴さんにとって和光がそうであるように、誰にとっても原点となれるような場所であり続けたい、と思わされたインタビューでした。

(了)

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プロフィール

大鶴 義丹 (おおつる ぎたん) 俳優、小説家、映画監督。

東京都出身。ケイダッシュ所属 高校時代より、NHKのテレビドラマなどに出演していたが、大学在学時代に映画『首都高速トライアル』により本格デビュー。その後、テレビドラマと舞台を中心に俳優活動を続ける。 大学在籍中の1990年に『スプラッシュ』で第14回すばる文学賞を受賞して、小説家デビュー。 1995年、『となりのボブ・マーリィ』にて映画監督デビュー、現在までに4作の劇場公開映画を監督する。昨今では、情報、バラエティ番組、ドキュメンタリー番組などにも数多く出演。 バイクに関しては雑誌などでも連載を持ち、レーシングチームをプロデュースするなどの活動も行っている程のマニア。 2008年8月には、ペンネーム「タンジール」で発表していた携帯小説『チェンジ・ザ・ゲーム』を本人名で単行本化する。内向的な少年がヒップホップスターになっていくストーリーで、ミュージシャンである清水翔太との出会いに、小説の構想をインスパイアされたという。最新刊は2011年3月刊行の『その役 あて書き』である。 2009年4月、十四年ぶりとなる、脚本監督作品『私のなかの8ミリ』が公開された。また、音楽PVの監督や、幾つかのVシネマの脚本なども手がけ、同年9月には、最新・脚本監督作品『ブレーキ』(原作 山田悠介)を発表。 2011年3月に、ジャニーズ所属の俳優風間俊介を主演に迎えた青春映画『前橋ヴィジュアル系』が全国公開された。昨今では監督やプロデュースなど、制作側としての活躍が顕著にみられる。同年には真木蔵人主演にて東本昌平原作の漫画『キリン』の脚本監督をする。2012早春公開予定。

大鶴 義丹オフィシャルブログ

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