卒業生インタビューvol.23

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今回は、朝日新聞の窓の欄にも沖縄本島でおこなわれた『全島とぅばらーま大会』(八重山地方に残る叙情歌謡)で県外初の優勝者として紹介された伊藤幸太さんです。和光小学校・中学校・高等学校と進学され、小学校時代に触れたエイサー(沖縄の踊り)に衝撃を受けたことをきっかけに三線にも興味を持ち、その後、沖縄国際大学進学後から現在に至るまで一途に三線を続けられています。和光小学校沖縄学習旅行25年・和光鶴川小学校15年感謝の夕べの会場となった那覇ホテルシティーコートにてお話をうかがいました。

聞き手:和光小学校副校長 中村源哉 (伊藤さんの和光小5・6年時の担任)

聞き手:和光小学校を知ったきっかけはなんですか?

伊藤:父・母が和光大学出身で和光の教育を子どもに受けさせたいというのが始まりだったと思います。

聞き手:小学校の時代は、どんな子どもだったですか?

伊藤:それは逆に先生(聞き手:中村)に聞いた方がいいと思いますけど(笑)…。

聞き手:(笑)ま、そうかもしれないけど、自分ではどんな小学生だったと思いますか?

伊藤:民舞大好きな子どもでしたね。次の踊りなにやるのか、来年何ができるのかなと身近に先輩の踊りを見ながらあこがれを持ちながら、楽しみにしていました。…和太鼓をやっていたっていうのもありますが…。

聞き手:和太鼓はいつからやっていたんですか?

伊藤:和太鼓は保育園のときからです。

聞き手:今、三線の世界に入って活躍されているわけですけれど、そもそも三線との出会いは、いつからですか?

伊藤:小学校4年生のときに、いちょう祭りで初めてエイサーを見ました。ちょうど『小さな語り部たち』(証言者に学ぶ和光小沖縄ビデオ)をつくった代ですね。そこで、三線の音色をはじめて聞いて衝撃的だったっていうのはありますけど、そのときは、大森御神楽のことで頭がいっぱいでした。5年生になって、やはり次にいきたい(つなげたい)っていうのがあって、そこで三線やってみたい、エイサー早くやりたいなって思いました。大太鼓なんかもカッコいいけど、やっぱり“楽器”だなっていうのがあって、三線にふれはじめたっていうのがはじまりですね。そのとき、友達2人をあわせ3人で三線をはじめたっていうのがきっかけですね。そのときは、自分たちが踊っているエイサーの曲が中心ですね。

聞き手:私は、よく覚えているんですけど、カンカラ三線を初めてつくりましたよね。そのとき、喜多見にある南灯寮で金城 充さんという方と出会いましたよね。充さんとは、その後つながりはあるんですか?

伊藤:ないんですよ。充さんのお母さんも来てくれたりしたので、連絡とれたらなと思うんですけど、ないんですよ。

聞き手:そこから、三線にはまっていくわけですね。その後、大工哲弘さんに出会っていくことになると思うんですが、その出会いのきっかけはどうだったんですか?僕も担任でありながら、当時のことは忘れてしまって申し訳ないんですが…。

伊藤:師匠(大工哲弘さん)の名前をはじめて見たのは新聞なんですが、ちょうど、石川防衛大臣が知らないといった「少女暴行事件」の起きたときなんですね。そのときに師匠がタイミングよく『沖縄を返せ』をリバイバルして出していたんですね。そのときは、そこまでのことを考えて出していたのではないかもしれないんですが、こういったものもつながって県民決起大会なんかも行われてその中で、師匠は『…沖縄を返せ、沖縄へ返せ』と唄ったことがきっかけで『ニュース23』に出たのです。それが新聞で取り上げられていて、目に止まりました。「あっ、こんな平和のメッセージを三線でやっている民謡歌手っていうのがいるんだ」ということを知って、無性にこの人のことを知りたくなったんです。 そこで新聞社に連絡してこの人に会いたいということで手紙を書いた。それがきっかけですね。

聞き手:それで、中学校にすすんで、中学校は、主にどんなことに夢中になったんですか。

伊藤:中学校は、もうバスケットボールですよね。

聞き手:中学時代は、三線は?

伊藤:続けてはいました。栗原先生(栗原 厚裕氏)に教えてもらいながら、でも、独学と遊び程度ですし、テスト前に勉強に煮詰まると弾くという感じではありました。

聞き手:そして、高校に進まれて、沖縄の大学にいこうと思ったのはいつごろですか?

伊藤:高校3年生になって自分の進路を考えた時に、自分がいったい何をしたいのかなって思ったんですね。これまで、自分がずっと続けてきたことはなんだろうな。バスケットボール、その前には三線。三線はずっと続けてきていて、大工先生ともずっと交流は続いていました。自分は三線音楽に対して刺激をもってたし、興味をもっていた。大工先生に憧れ、尊敬していましたし、もっと突き詰めてみたいなというのもあった。その当時三線やっているのは、自分しかいなかった。文化祭なんかでもやりましたし、こうやって尊敬している先生がいるんだから、もっと極めてみたいと思い、弟子入りしたいと思いました。歌を学ぶだけではなくて、思想なんかも学んでみたいなというのがあって、沖縄行こうということを決めました。 だから、先生に弟子入りするのが本音ですけど、それだけを親に言ったら話にならないなと思って、沖縄の文化や歌詞、方言のことを学べるところ(大学)に行くということを、たてまえでもありますが、プラスして大学に進もうということにした。それには、沖縄に行くしかないと思いましたね。

聞き手:伊藤さんにとって和光で培われた力はどんな力ですか。

伊藤:本(『沖縄に学ぶ子どもたち』)の中でも書いたんですけど、生きていく力、自分の生きていく道を選んでいく力、これは、大きいのではないか、と思う。自分の好きなことを人生の道にしていくというのは、大事なことであると思いますし、大事にしなければいけないことだと思います。生きていく道を選ぶ力、「生きる力」というのを学んだことですね。

聞き手:沖縄に来て、沖縄国際大学に入りました。そこで、ヘリコプタ―の墜落事故がありましたね。あの時はどんなふうに感じましたか?

伊藤:あの時ちょうどサークル棟で三線のけいこしていたんですよ。音もなにも聞こえなかったんですけど、後輩がヘリコプターが落ちたと駆け込んできた。野次馬のように見に行きました。野次馬になってしまっている自分がいて、なんか慣れてしまっているなと。こんな大変なことなのに、野次馬になってしまっている自分がいるというので、沖縄に住むことの重要点、沖縄から見る沖縄の現状というのと、内地から見る沖縄の現状というのは違うんだなとすごく感じました。基地のフェンスって住民側に向いているんですよね。そこから米兵が登ってくるんですよ。こうやって、なだれ込んでくるのを見たときに、本当にどっちが基地の中にいるのかなと思ったり、ゲートがあるのにこうやって入ってこれる米兵たちを見ながら…。シャットアウトですからね、自分たちの大学なのに。その場所に入れない、そんな理不尽さも感じましたし、家も大学のすぐそばなので、恐怖感も感じます。今でもヘリコプターが飛んだら、家がガタガタ揺れますし、恐怖感が沖縄の現状だし、平和ボケしている日本人であり、沖縄の人たちだけど、いざ何かあると、こういうことになるんだなとまじまじと実感させられました。 基地は絶対になくさなければならない。でもなかなかそうはいかない現実が山積しています。でも絶対に全てが沖縄にならなければいけないんです。

聞き手:大学を卒業されて沖縄に住まわれて、今、お仕事は何をされているんですか。

伊藤:コザ信用金庫というところの職員です。信金マンとして働いています。

聞き手:三線の公演活動はどのくらいやられているんですか。

伊藤:公演依頼がないとやらないですし、ライブ活動もあまり多くはないですね。 何故仕事をしながら三線やっているかというと、もちろん三線だけで食べていければいいんですけど、そういう現状ではない。どれだけ、自分なんかよりうまい人たちでもそれだけで食べていくっていうのは、そうとう苦労なさっていると思うんですね。 特に八重山の歌っていうのは、生活の歌であり、農業の歌であり、仕事をするときに唄いながら農業してきた歌『ユンタ』という歌があります。八重山の歌っていうのは、生活の歌、生きていくために唄ってきた歌っていうのがあるんですよね。だからこそ、その歌だけで、生活していくのではなくて、生活するために唄っていく。そのためには、仕事をしながら、その仕事のために、歌を糧にしていく、それこそ八重山の歌なのかなっていうことを先生に教えられながら、歌のことも勉強しながら、わかっていったと思う。仕事をしながら唄っていけばおのずと生活感がでてくるだろうし、そのためにも仕事をつづけながら唄っていくっていうのは重要なこと。もちろん生活基盤をしっかりしないと好きなこー唄うことーができないから、そこは重要なことだと思います。

聞き手:これから先、どんなことをしていきたいですか。

伊藤:難しいですね。師匠を尊敬しながら、沖縄に移り住んできたんですけど、それを考えると、師匠の担い手、師匠にどれだけ近づいていくか、これを求めていくのが目標であり、夢ですね。その中で、うちの師匠は、いろんなメッセージを歌にのせて主張してきた。それが、政治的であろうが、何であろうがいいんですけど、メッセージ性を語りかけられるような民謡の歌い手、師匠の唄と考えを伝える担い手になりたいというのがすごくあります。

聞き手:最後に、今の和光生にメッセージをお願いします。

伊藤:これぜひ、載せて欲しいと思うんですけど、今回アイデンティティの話をしました。大学生時代、同級生と飲んだ時、アイデンティティの問題で口論になったんですね。友達は、ずっと沖縄で、アイデンティティは確立されている。揺らぎのないものがある。自分にとってはアイデンティティってなんなんだろうって思うわけですね。自分はもちろん沖縄人(ウチナーンチュ)になりたいとか、八重山の人になりたいとか思ったり。また唄いながらも、「お前、沖縄人(ウチナーンチュ)でしょ、それなのになんで沖縄の歌を唄っているんだ」って考えたり。だったら内地人(ナイチャー)になりたいと思ったりもするんだけど、でも、実際問題なることはできない。じゃあ、自分のアイデンティティって何なんだろうって思ったとき、東京へ帰って同級生や後輩、先輩と話していく中で、マッチングしていく自分の心とか、なんで今沖縄に来てこういうことをやっているのか、ということを思い返してみる。和光の教育の中身だったり、和光という場だったり。そういうところにアイデンティティを感じますし、居場所であったりするなと思うんですね。そういう仲間や居場所をつくってほしいなっていうことを今の和光生に言いたいなと思います。でも、言わなくてもどんどん作っていくと思うんですよ。いまだに東京に帰って、友人と飲んだりすると喧嘩や口論になっちゃうんですよ、バカみたいに。だからダメなんだとか言って、ボロボロにお互い泣いたりだとかしながら。でも、次の日になったら、恨みっこもないし、逆に何かを得ている気がしてスッキリしたり。そういうのって自分の居場所だなって思うんですよ。ぜひ、そういう関係をつくってほしいなと思います。

それから、沖縄・八重山、日本に限らず全ての民謡をもっと聴いてほしいですね! 民謡にはその土地と歴史と言葉、沢山のアイデンティティが詰まっていますから。

あとは、皆さんに伊藤幸太の想いが詰まった歌をぜひ聴いて頂けたら嬉しいです。

聞き手:今日はどうもありがとうございました。今後の更なるご活躍を期待いたします。

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プロフィール

伊藤 幸太(いとう こうた)  沖縄三線奏者・信用金庫勤務

経歴 1996年和光小学校、1999年和光中学校、2002年和光高等学校卒業 2002年沖縄国際大学入学とともに単身沖縄に移住し沖縄県指定無形文化財、八重山民謡唄者の大御所、大工哲弘氏に師事。 沖縄国際大学にて、先輩と共に琉球芸能文学研究会を発足。初代会長となる。 2006年沖縄国際大学、日本文化学科、卒業。 2006年「第4回競演の島唄」修技賞受賞。 2008年沖縄国際大学大学院、地域文化研究科、修了。 琉球民謡音楽協会民謡コンクール、新人賞・優秀賞・最高賞・大賞を受賞。 2009年、「第15回全島とぅばらーま大会」優勝。 2012年ラジオ沖縄主催「第23回新唄大賞」大賞グランプリ受賞。 琉球民謡音楽協会・八重山音楽安室流室山会、教師。 県内外に於いて、舞台・ライブ・ラジオ・テレビを中心に八重山民謡唄者として活動の幅を広げている。

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