卒業生インタビューvol.31

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宮川さん

今回は中高と和光学園で学ばれ、中学校の3年間が今のご自身のすべてを形作っているといわれる作曲家・舞台音楽家の宮川 彬良さんにインタビューしました。 最近では『マツケンサンバⅡ』の大ヒットやNHK教育番組での『夕方クゥインテット』、お父さんの宮川泰(ひろし)さんの『宇宙戦艦ヤマト』を引き継がれてリメイクされたことなどでも有名な方です。

宮川彬良(以下、宮川と記載):谷岡先生、お久しぶりです。あれからお変わりないですね。ちょっと丸くなられたのかな。痩せこけるよりは良いけれど(笑)

谷岡みち(以下、聞き手):あなたのほうは、中学時代は小柄な方だったけど、すっかりスケールが大きくなっちゃったわよね。この間会ったのは、谷津田くんのお店でクラス会をやった時よね。彼は小田急線座間駅から徒歩2~3分のところに、小じんまりした個性的な日本料理店「有美の里」を経営してる、立派ね。

――――こんな調子で宮川彬良さんを迎えに行った車内でもとりとめのない話が弾みました。中学時代の3年間担任をされた谷岡みち先生は、当時の記憶もそしてその後に会った時の記憶も実に鮮明でした。 今回の和光人インタビューは、今のご自身の人生の節目だったと言われる宮川彬良さんの中学時代に的を絞って、3ヶ月後には88歳になられるという谷岡先生とともに対談という形で和光小学校にておこないました。(当時の中学校は、まだ世田谷の和光小学校の敷地にあったのです)

和光学園との出会い・演劇との出会い

聞き手: あなた、それにしてもずいぶんとお仕事されているのね。資料もらって驚いちゃったわよ。 私の娘も孫も『クィンテット』(NHKのEテレ教育番組)の大ファンで、良く知っているわ。アキラくんって人形劇のキャラクターにもなっているのね(笑)
確か妹さんが先に和光学園に入ったのよね。実際のところ和光を知ったきっかけは何だったの?

宮川:三枝成彰さんがピアノの先生の知り合いだったこともきっかけになったんですよ。その後、藝大を出たての三枝さんにもお世話になるのですが。

聞き手: 先輩の三枝くんの世話になったというのは嬉しい話ね。彼のクラス担任は丸木政臣先生。 恐らく丸木先生の指導のもとで、クラス独自の文化活動として演劇づくりにとりくんでいたんですね。次々と民話劇にとりくんで「夕鶴」「三年寝太郎」など演出・作曲を担当する三枝くんを中心に、クラス全員が一丸となって創造性を発揮していたと思う。これがやがて中学全校の学級演劇祭に発展したのよ。

私が日直のとき、責任上、「6時30分が限界。下校しなさい」というと、三枝くんが血相かえて噛みついてくる。「この段階で、練習を中止できると思いますか」と。私も譲るわけにはいかない。まるでケンカでしたよ。私も若かったから必死だったと思う。でもね、「夕鶴」で、つうが与ひょうのために、我が身の羽を抜いて、はた織りをして、みるみる痩せてやつれていく。その姿を三枝くんの作曲が幻想的で神秘的な雰囲気を舞台に創り出して見事でしたよ。

宮川:そうそう、三枝さんたちの残り香というか下地が十分に残っていたのは幸せでした。あの学級演劇っていうのは、やっぱり丸木先生が好きだったからですか? あの頃、演劇に燃えていた谷岡先生のクラスだったのは、今の僕を形作っていると言っても過言ではないですね。脚本は先生から提示されたものだったんですね。

演劇をする人の音楽を作る人になる!って決めてる僕がいた

聞き手:私は家が経堂だったからね。帰りに私の家に集まって、ゴーゴリの「検察官」を自分たちの台本にしようと、演出の辻田くんを中心に吉原さやかさんたちが書いたものなのよ。何回も集まって、かなり時間をかけましたね。

宮川: 中3はゴーゴリで…そうだそうだ、辻田くんを中心に作ったんでしたっけ。それもダブルキャストだったし。う~ん、今考えても凝った舞台でしたよ。僕が作曲してね。それで花開いたんです(笑)

科学の好きな子はちゃんと照明の席に座るし、役者になった子もいるでしょう。将来の音楽家はテープレコーダーを運んでたり(笑)

数学も体育も、文学、歴史、技術も…。衣装づくりだって。演劇って、色々な教科が凝縮されてますよ。 もちろん、それぞれ得意・不得意はあるんだけれど、何かしらで自分を生かせる場面がありますよね。 もう学級演劇というのは総合芸術ですよ。

この人、台詞を覚えるの凄いなとか、こんな大道具作ったのか~とか、仲間の新たな発見も多かったですね。

聞き手:それが学級演劇の神髄というものね。1人残らず自分の担当する仕事を選んで関わって、1つの演劇を作っていくというのは素晴らしいと思う。

宮川: 演劇ならではですよね。先生になる学校ってあるでしょ。僕はね、そういう人達は1度下手でも良いから演劇をやってほしいなと思うんですよね。そのくらいやる価値はあると思う。

そういう科目をつくれ…というのではないけれど、この子はここで活きてくるとかね、勉強になると思うんです。 中2では戯曲を選んで「黒い太陽」だったかな。リアルな戦争体験の話を聞いて内容を深めたりしましたね。中1は…タイトルは出てこないけれど、風刺劇でしたね。谷岡先生がやってみてって言われたので『大人はみんなダメになる』って歌をつくったのはよく憶えていますよ。「頭はあってもカラカラ、心があってもパサパサ、大人はみんなダメになる」って歌でした。

演劇って、ロシア圏や共産圏から来た社会問題だったり、風刺劇だったり、強い者に意見を言うっていうところがあるでしょう。井上ひさしさんとか好きな感覚—-それって『公平』ってキーワードが大きいな。 大人って何だ、子どもって何だ…。なんで戦争ってするんだろうって考えていたあの頃。
谷岡先生の取り上げてくれた台本が、今でも僕の羅針盤になっているんですよ。突き詰めると何でも『公平』ってキーワードに行き着くんですよね。先生はいつもそんなテーマで演劇を選ばれていたんですか?

聞き手:「象の死」などは中学1年生にふさわしい台本ですね。上野動物園の象が戦争のために、殺されなければならない。一生懸命に芸をするんだけれど餌をもらえないの…。私達の時代は、戦争中で個性が潰されていた時代だったからね。今の個性を発揮できるっていう自由は幸せよ。
そういう訴えるものがある作品を候補にいくつか出して生徒たちが選ぶ感じだったわね。

宮川: 僕は谷岡先生のクラスでよかった。中3のゴーゴリが終わった後は、丸木先生も褒めてくれて、「キミ達はスゴかったじゃないか、この中にはこれから演劇を職にする人もいるだろうから一言いっておきたい。演劇をする上でよい本に巡り会う以上のことはない…」って言ってくださったんです。僕は今、書く人なのだけれど、よい本とは準備するってことなんですよ。小説でも作曲でも、授業でも同じ。自分でも書いてて、重要なことを見落としていないか…とふと考えることがあります。

その学級演劇をやっている時は、もう最中から、僕は演劇をする人の音楽をつくる人になる!って思ってましたね。なりたい!ではなくて、なる!って決めてる僕がいたんです(笑)

聞き手:和光ってホントに行事が多かったわよね。今もある館山水泳合宿の他に、箱根方面での登山もあったし、スキー合宿もあった。これらの行事には、それぞれ意義があって、授業を中心にしながらより豊かな中学校教育を創りあげていったのですよ。定年退職してから、英語を媒介とする日本語を教えに英国のUWCアトランティックカレッジへ3年間仕事に行ったとき、和光との共通点を発見して共感をおぼえましたね。学習面では1年~3年までの全校縦割り班で学習運動っていうのもあったわね。和光中学校独特の教育活動ね。

宮川:そうそう、1年生が3年生に教えていたりしてね(笑) それで合格できたりすると、「我が班の誇り!!」とか言ったりして、実に楽しい時代でした。 何回不合格を取った人がいても、みんなでがんばってそいつを合格させてやるんだ!って、意気込みがありましたよ。

聞き手:そんな全校の数学学習運動の中で、班の中で1年生に教わっていた3年生が、事実、今は県立高校の数学の教員になっているのよ。(笑) 人気のある先生らしいですよ。

宮川:きっと自分が苦労した分、(できない子の)気持ちがわかるんでしょうね。

アキラ流、昼休みの過ごし方

聞き手:中3の時には2階の奥に教室があって、昼休みに「先生、教室に来てみて」って声をかけられて行ってみるとなんだか教室の外にもキレイな音色が聞こえてきていて、みんなが集まってアキラくんの弾くシンセサイザーの音色を楽しんでいたのよね。

その頃、なにかというと男子たちは「ハ~イ♪」って返事までハモっていたもの~(笑) とっても楽しそうだったわね。

宮川:そうそう、劇団までつくっていたんですよ(笑) 名前は『おさむ一座』。はちまき姿の似合う鰻屋の息子が演技をして、僕は効果音でこういう音がほしいな…っていう要望を聞いたり自分で考えたりしながら、間にも音を入れていくの。 のちに堀川ジョージ達とバンドを組んだりもしていたなぁ。

印象に残っていること

聞き手:当時は3年間担任を持つっていうのが原則だったから、私が担任していた訳なのだけれど、他に印象に残っていることとかあるかな。

宮川:そうそう、森下先生の『鉄鉱石はどうしたら取れるか?』って授業で、焼却炉を使って鉄鉱石がドロドロに溶けたところをイメージしてつくりあげる授業があったんですよ。結局は、温度が低すぎてドロドロには溶けなかったっていう…。 いや、あれは見事にしてやられた感がありましたよ(笑)

中学時代って何に対しても内に秘めてますよね、インサイドに。高校生くらいだとちょっとアウトサイドな感じだけれど、中学くらいって他と同じじゃないと恥ずかしい的なね。一筋縄ではすんなりいかない時代ですよね。

それから、先生方の思い出もそうなのだけれど、谷岡先生の教え子だった小さな先生達がいつも一緒にいた覚えがあるんですけれど…(笑)

聞き手:(笑)そうね~。あの当時は同じキャンパスに私が受け持ったあなたたちより3年上の人達もいたからね~。クラスのHR合宿に行ったときなんかも進んでアシスタントのようにお手伝いしてくれて随分と助かったものよ~。梶田さんとか、金本さんとか、佐藤さんとかよね。なかなかクリエイティブだったわよね。

かつて、ユネスコの実験学校として全国で4校が選ばれ、そのひとつに和光が指定されてユニークな教育実践のレポートをパリに送っていたこともあったのよ。

宮川:それにしても先生のお宅ではなかなかじっくり子どもと向き合い時間がなかったのではないですか?

聞き手:それはそうかもしれないわね。学校で生徒と接する時間が多かった分、我が子との時間が減ったのかもしれない。仕事も夢中でやっていたし、近かったこともあって、生徒もよく遊びに来たし…。 だから、はい、あるものを自分で食べて~なんて、ラフな感じでね(笑)

宮川:それから以前から聞いてみたいと思っていたのだけれど、be動詞から教えないのは、谷岡流?! あの教え方はあれから拡がりを見せたんですかね。私的にはとても分かりやすくて良い教え方だと思うのだけれど。

聞き手:私はbe動詞を「~である。~です。」なんて教えるのはとてもナンセンスだと思っている。 本来、be動詞には意味が無くて、“be+名詞”“be+形容詞”ではじめて述語になるので、一般動詞にくらべて複雑。またbe動詞だけで、「いる・ある」など存在をあらわす用法も、動きをあらわす一般動詞にくらべて単純ではない。入門期には両者とも避けられるべきだという考えですね。これは東北民教研で学んだことでもあるの。

名前のこと・父のこと

聞き手:それはそうと、本来アキラという名前は、本名は晶(あきら)よね? 水晶の晶の字だったのが、いつから彬良(あきら)に変わったの??

宮川:父が泰(ひろし)だったので、晶(あきら)という一文字も良い字でさっぱりしてて好きなのですが、こういう仕事をするなら変えた方が良いと言われたので、姓名判断で30歳の時に変えました。 宮本亜門さんも姓名判断らしいですが、変えた翌日からだいぶ変化があったそうです(笑)

聞き手:お父さんの泰さんは、宇宙戦艦ヤマトの作曲者ということでも凄く有名ね。親子で同業って難しい…という話を聞くこともあるけれど、嫌だなぁとか父子の関係でぶつかることはなかったの?

宮川:そういうところで、父は(もう亡くなってしまいましたが)もの凄く上手かったんです。僕のことをうま~く持ち上げてね。「これ、できる??」とか言ったりするわけです。

いま、僕は3人の子の親ですけれど、私を超えていってくれないと困りますからね(笑)

でもね、父は宇宙戦艦ヤマトで一世を風靡しましたけれど、実は母のほうがスゴイの(笑)今でも心身ともに健康なのは勿論だけれど、卓球の世界大会で優勝したこともあるし、いまだにヘルシンキの国際大会に出場して準優勝したりしているもの…(笑)

谷岡: プロフィールによると、大変な思いをして入った藝大を中退した…とあるけれど、そこのところはどうなの?

宮川:今にしてみると、大学は4年間だから、卒業しておけばよかったかな~と思うこともありますけど、あぁいう学閥主義(この人に師事しないと受からない)の手垢みたいなものがあまり好きではないのと、入るまでが大変だったんで、入ってからがとてもつまらなく感じてしまったんです。 もう実際にオーケストラピッドに入って指揮を振ってましたからね。実践的に学んでいたというべきなのかもしれません。私にとっては入るまでの過程(和声などのメソード)が大いに勉強になりました。

聞き手:そうよね。本来は入学してからいかに充実した大学生活をおくるかが本命なのに、入試の突破を目標にして、そこで燃え尽きてしまう人が多いのも事実ね。オックスフォード大学では入学試験はなくて、インターナショナルバカロレアの成績への要求レベルの獲得と指定された日時に大学で教授と出されたテーマについて対話を1時間近くすることで決定されるのね。 私は受験一辺倒教育には反対。文科省でも昔は塾なんて否定してたんだからね。塾って、遅れたことを見てあげるなら良いんだけれど、入った学校の名前だけで人間の価値を決めてしまうのは実にナンセンスだと思うの。予備校に行かないと受からないような今のスタイルはノーマルではないと思うのよ。

宮川:オーケストラを前にするとね、僕の場合は学級をイメージするんです。和光の時に先生方がていねいにプリントを用意してくれたようにね。楽団員も1人ひとり個性的ですからね。僕自身もていねいに楽譜の中に色々ノッてくるようなしかけをつくっておくんです。先に言ってた準備のことです。だから、僕の譜面=(イコール)和光学園のプリントと同じなんですよ。

難しい顔してみんなの前に立ちたくないし、ニコニコしながらみんなの前に立って、「さぁ、一緒に音楽を奏でよう!」っていう感じでいつもいるんです。

聞き手:そういうのって教師冥利に尽きるわね(笑) お子さん3人を和光に入れていたけれど、感じることってあるのかな?

自由って何だ?!

宮川:僕は和光中学・高等学校と6年間通ったけれど、中学の3年間は人生の節目であり、あの3年間が今の僕を作りだしていると言っても過言ではないんです。

実際に子どもを入れてみると、なんだか最近は親のほうも色々ですね。親同士が仲良くなりすぎているのか授業参観でヒソヒソ話してるのが気になって、授業が聞こえなかったこともありましたね。授業参観中なのに「あっ、○○ちゃん、この間はありがとう~」とか平気で言って手を振っちゃったり…。 理想が高すぎたのかな?!とも思いますが、最近の親の価値観の違いは大きいかもしれませんね。

自由とか、個性って言うのは、履き違えも多いのかなって思います。デパートの洋服売り場のように吊しで個性が売っているわけじゃないんだから、表面上の見かけだけではなく、まず散々みんなと同じようにやってみて、残ったものがキラリと光る個性なのではないですかね。 もっと1人ひとりの内に持っているものを信じて認めて、色々な変化の中で真剣にやりつつ、もがいていくうちに分かることってあるんじゃないでしょうか。

僕は自由って何だ?!って12~13歳から考えていましたからね。自由って言っても、簡単には言葉化はできないですよ。 館山もね、昔は充実感って言葉を使っていたんですよ。それを現代では達成感って言われると、そこでハイ終わりみたいな感じがしちゃいますね。充実感っていう言葉の微妙な違いが分かる自分になったってことなのかもしれません。

でも、館山では私達の頃には(共同教育で)障がいで義足の生徒が居たんです。特別パーティーを組んで その人のペースで遠泳を体験させてあげるところはもの凄く感動したし、公平・平等であたたかい和光らしい行事だなぁ~って思いました。

聞き手:言葉にはすごくこだわりがあるようね?

宮川:僕にとって言葉は音楽と密接な関わりがありますね。文学と演劇みたいに。 なんでも突き詰めていくと、最後は『命』のことにぶち当たるように感じます。命があって初めて世界が広がっていくように。

聞き手:和光学園になにかメッセージを…って言われてるんだけど(笑)

宮川:自由というのは難しいもので、なんでもやって良いということではなくて、考える自由・工夫する面白さだと思います。 平和ということをひとつ例に取っても、平和は何もしないで平和は維持されるわけではなくて、とてもエネルギーを要することだし、行動していくことだと思います。

僕も演奏で私学のマンモス校に呼ばれたりもしますが、大きな学校ではなくて、和光学園の落ちこぼれを出さないっていうところやそれぞれ個々に持っている(本当の)個性を認めて育てていくところはこれからも大切にしてほしいですね。

聞き手:私は和光の卒業生であるあなたを心から誇りに思います。 今日は本当に忙しいところありがとうございました。

(了)

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プロフィール

宮川 彬良(みやがわ あきら) 作曲家・舞台音楽家

1961年2月18日、東京生まれ。(本名は晶(あきら)) 和光中学・高等学校卒業。 東京藝術大学在学中より劇団四季、東京ディズニーランドなどのショーの音楽を担当。その後、数多くのミュージカルなどを手掛け、舞台音楽家として活躍。受賞歴多数。 松平健のショーのために作曲した「マツケンサンバⅡ」が大ブレイク、舞台音楽からヒット曲を送り出した。 一方で演奏活動もめざましく、自身で、作曲・編曲・指揮・ピアノ演奏・解説を行いながら進めるコンサートは、誰もが楽しめ親しみやすいと定評がある。 2003~2010年NHK Eテレ「クインテット」、2009~2010年NHK BS2「どれみふぁワンダーランド」、2011~2012年NHK BSプレミアム「宮川彬良のショータイム」の音楽を担当、出演。2012年~アニメ「宇宙戦艦ヤマト2199」の音楽を手掛けている。舞台、コンサート、テレビ、ラジオなど、多岐に渡るジャンルで活躍している。

宮川彬良HP

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