卒業生インタビューvol.5

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大石彰さんは金井校舎(東京都町田市)最後の和光高校の卒業生です。卒業後28年を経た現在はデンマーク在住、2001年からロイヤルコペンハーゲンのペインターとして活躍中。帰国された機会に中高等学校へお呼びして、いろいろ語っていただきました。 インタビュアーは大石さんが高校3年の時の担任教員です。

(聞き手:和光高校教員 地井衣)

「やらないで後悔する」のは「やって後悔する」よりまずいだろうと思って、仕事を辞めて行くことにしたデンマーク

聞き手:今どんなお仕事をされているか聞かせて下さい。

大石:ロイヤルコペンハーゲン社の上絵付け部門で「フローラ・ダニカ」などの製作をしています。フローラ・ダニカというのは、今ではロイヤル・コペンハーゲンの高級食器の名とみなされていますが、もともとは1761年から刊行され始めた植物図譜集の書名で、「デンマークの花」という意味なんです。通説によれば、当時のデンマーク王室がロシアの女帝エカテリーナ二世にプレゼントするつもりで、その図鑑の植物全てをディナーセットに描かせたものだったのです。ところが、完成間近にエカテリーナ女帝が亡くなってしまい、膨大なオリジナルがデンマークに残った。これが最初のフローラ・ダニカです。オリジナルでは菌類や海藻までが描かれましたが、現在では食器にふさわしい花だけが選ばれ、その絵付けを今担っています。芸術家というよりは職人的な仕事ですね。

聞き手:絵は釉薬をかける前に描くんですか?

大石:いいえ、釉薬が既にかかった白磁の上に描いて、それを900度前後で数回焼くんです。絵の具は鉱物の粉をオイルで溶いたものです。

聞き手:焼き上がりは顔料のもとの色と同じになるの?

大石:同じように焼ける色もありますが、金が含まれている色は焼成後にはじめて鮮やかになります。絵の具の厚さやオイルの加減など、自分の経験で確かめていくしかないですね。デンマークは、日本のような上下関係の構造がとても薄い国で、ここのような職人の世界でも経験者が若手に対してしっかり「注意する」というような慣習がなく、良く言えば個人の自由な表現が重んじられています。悪く言えば、絵付けの内容にばらつきが出るということです。職場としては、見習い生も30年以上の経験者も自然に対等に話ができるので、とてもリラックスした雰囲気です。

聞き手:ところで、なぜデンマークに?

大石:大卒後、勤めていた職場からフィリピンに行かせてもらう機会があって、ちょうどマルコス政権からアキノ政権に変わる直前だったので、日本の外で起こっていることや、異民族・異言語にふれて、すごいカルチャー・ショックを受けました。それ以来英語の独学を始め、関心は日本の外に出ることに向かっていきました。 ちょうどそのころ、知人を介して、デンマークにユニークな学校があることを知りました。しばらく悩んだ結果、職場を去って短期の留学を選んだんです。

聞き手:それはどんな学校なんですか?

大石:デンマークで「フォーク・スクール」と呼ばれる種類の学校のひとつで、「インターナショナル・ピープルズ・カレッジ」に行きました。いろんな国から参加者が集まり、お互いから学びあうんです。授業としては、第三世界の問題、国際政治、女性問題、環境問題、音楽などでした。日本人もたくさん行っているようなので、知っている人も多いかもしれません。

聞き手:それで、行ってみようと?

大石:日本から離れるという経験をしてみようと思い始めたのは25歳頃で、実行するまでに2年くらい迷っています。日本での仕事を続けるべきか、冒険してみるべきか。やはり組織を離れるのは心配でした。でも結局「やらないで後悔する」のは「やって後悔する」よりまずいだろうと思って、仕事を辞めて行くことにしました。

聞き手:行ってみてどうでしたか?

大石:ヨーロッパに行くのがそれが初めてだったし、いろんな国の連中がいっぺんに集まって、互いを知り合うという機会がある。それはとにかく刺激的でした。男女とも20歳前後の若い人が多かったですが、初対面から皆ひとなつこく、しかも堂々とした発言ができるので、非常に感心しました。30歳位だろうと思っていたすごくインテリのカナダ人男性が、実はたったの18歳だと知ったときの驚きは大変なものだったし。また、同じ英語にもそれぞれの国々でなまりがあります。例えばインド人は英語に堪能だけど、ものすごく分かりにくいんです。イギリス人の発音がアメリカ人とかなり違うのも、当時すごく苦労しました。 その学校は一期間が約5ヶ月で、そのあと少し滞在を延期したり、イギリスに渡って英語を勉強したりして、日本に帰ったのはそれからさらに4ヶ月ぐらい後でした。

聞き手:で、またデンマークに?

大石:ええ、結婚を契機に、デンマークに移住しました。 そこで人生一からやり直しですよ。何しろ言葉はわからない、人脈もない。で、日本食レストランでの皿洗いから始めて、そこから日本人のつながりで仕事を転々として、やっと日本の航空会社の現地採用として一度は落ち着いたんです。 ところが日本のバブル経済がはじけて、90年代にその会社がコペンハーゲンから引き上げてしまい、仕事を失ってしまいました。

聞き手:そこで転機が訪れたわけですね。

大石:そのころ、ロイヤルコペンハーゲンの元絵付師の日本人と知り合って、この仕事の世界について知る機会があったんです。

聞き手:それで、この仕事についたわけですか?

大石:そうですね。この仕事は言葉をそんなに使わなくていい仕事ですから、外国人には都合が良いかもしれないと思いました。会社に入る条件は半年間テクニカルスクールに行くことで、そのあと会社の採用試験に応募。スケッチのテストを受けて合格し、見習い生として先ずは採用されました。上絵付け師になるまでには、それからまた3年半の訓練期間があります。私の場合さらにその途中で一年間、下絵付けの「ブルーフラワー」の仕事にも就きました。

聞き手:その道に進んだのは、何歳ぐらいの時ですか?

大石:30代半ばですね。

聞き手:そんな年代になって、よく新しい分野に挑戦できたなあ、と思うんですが。特に、空間認識とか、若いうちでないと身に付かないんじゃないですか?

大石:30代で新しいことへの挑戦って、デンマークではそう珍しいことじゃないですよ。それに大学時代は、建築学科でデッサンをやったりする機会はたくさんあったから、それが役に立っているかもしれない。確かに、植物図鑑を元に描き写す時に、凹凸の多い色々な種類の食器に描くので、絵柄をそこにきれいに配置するための能力は求められます。見習い期間中も、絵画に関する基本を習ったり、クロッキーやデッサンをしました。

スクールでの訓練は基本的にはおもしろかったです。でも、また一から若い人と一緒にやらなくちゃならないというじれったさもありましたね。

聞き手:なるほど。で、今はお仕事をされていて、どうですか?

大石:絵を完成させるという達成感のある仕事で、やりがいはあります。自分の描いたものがコペンハーゲンの本店に初めて展示された時は、「やったぁ!」と感激しました。

聞き手:日本でもすでに売られているということですが、大石さんの作品かどうか私たちにもわかりますか?

大石:フローラ・ダニカの裏には、ペインターのサインが入ります。私のサインは、「aox」です。特に「サクソン・フラワー」と言うシリーズは一年間担当しましたので、日本のお店で簡単に見つかると思います。

聞き手:デンマークと日本とで、どんな違いがあると感じますか?

大石:最初の方でも言いましたが、人間関係の構造が違いますね。みんなが大体平等の位置にいて、政治家や医者、先生、警官でも、高慢な態度に出る人は先ずいないし、逆に患者や生徒でも自分を卑下する必要がない。日本のように人間関係を慣習から判断して測り、自分の位置を調整する必要があまりない社会です。

それから、よく「日本人は礼儀正しいでしょ」と言われるんです。そして、デンマーク人は自分たちを礼儀正しさがないと思ってる。でも、日本人の礼儀正しさは第一に型の礼儀であり、本心はよく分からないところがある。デンマークには日本のような礼儀の型はないんだけど、基本的に他人を隣人として尊重するという気持が強いと思う。初めて会う人にもとても友好的に対応するとかね。そのようにこちらの生活経験から、日本は「型の社会」だと実感することがよくあります。もちろんそこには良い面もたくさんあるし、逆に例えば、お店でのデンマーク人の顧客に対する対応の悪さにはいらいらさせられることがしばしばなんです。店員も顧客も同等な立場なので、日本のように顧客に気を使う態度があまりないんですね。

聞き手:これからもずっとデンマークに住まわれるつもりですか?

大石:それはこれからの悩みの種かもしれません。年が経つにつれて日本に戻りたい気持ちが強くなってくるようです。いくら永く住んでいても、異国人は「お客さん」なんですよ。 例えで言うと、将棋の駒がチェス盤に入ってしまったような感じかな。将棋の駒がチェスのルールを覚えようとして、ある程度は機能するでしょうが、結局将棋の駒にはかわりないんですね。だから自分の「盤」に戻りたくなることがあります。 でも、逆に永くいればいるほど向こうの国に払った税金は多くなりますし、社会保障なども考えれば、だんだん動き辛くなります。気持は帰りたくても、日本での経済的な基盤がなければ、難しいですね。

ギター、バスケットボール、少林寺拳法…和光高校の時代は自分がやりたいことに集中できたとき

聞き手:このあたりで、和光時代の話をしていただきましょうか。

大石:僕がいっていた公立中学校は、とても厳しい中学でした。校則がうるさくて、それがいやでたまらなかった。親からも勉強のことでは結構厳しくいわれていたし。それで、自由な和光高校に入ったんです。和光高校の時代は自分がやりたいことに集中できたときです。ギター、バスケットボール、少林寺拳法。 さっき、校舎に入る前に「少林寺拳法部全国大会出場」って垂れ幕があったんですけれど、少林寺拳法部は既に有段者だった友達が中心になって始めたクラブで、僕はその初代の部員の一人だったんですよ。

聞き手:そう、あのころブルース・リーが大人気で、みんなに「大石くんはブルース・リーに似てる」って言われてましたね。本人もちょっとその気だったんじゃない?

大石:かなりその気でしたよ(笑)。ブルース・リーには夢中で、今もDVD持ってます。少林寺拳法は、うまくなりたいから友人とあちこちの導院に行きましたね。授業が終わると、先ずはクラシック・ギターのレッスンに行って、その足で夜導院に行ったりってことがよくあったなあ。

聞き手:体育祭のこととか覚えてる?

大石:よく覚えてますよ。3年の時のバスケットの準決勝で、同点で延長戦になって、先に点を入れた方が勝ちってルールで、運良く僕が1ゴール入れることができて確か1組に勝ったんですよ。で、決勝では2組に負けちゃったんですけどね。 それから、将棋友達も二人いて、夢中になり過ぎて、授業中に将棋盤をこっそり交換した思い出もあります。そう、授業でよくグループ学習したでしょう?数学の時間とか、確かIとかOとかと一緒にやったの覚えてます。それから、物理の鈴木先生の「万有引力の話」とか、印象的でした。それにもちろん一番心に残っている先生は、3年生の時に担任だった先生です。姉よりもお若かったこともあってか、友達のように接していただきましたね。でも、その一方で、指摘すべき点はしっかり指摘されたような記憶があります。

聞き手:私も、和光へ来て2回目に担任したあのクラスのことはとても心に残っています。一緒にいろんなことをやらせてもらって。それなのに、若いくせになんだか威張ってたなあって、反省もしているんですよ。

大石:中学時代に本当に威張っていた先生をいやというほど見ていたこともあるせいか、そんな覚えは全然ないなぁ。いかにも理科系らしいはっきりとされた態度と同時に、いつも笑顔で対応していただいたので、みんなからすごく好感を集めていましたよ。そう言えば、卒業式の前日には、生徒みんなに最後の贈る言葉として「過去の栄光にとらわれるな」とおしゃったのもよく覚えていますよ。高校生には栄光と言えるほどの過去はないので、当時はピンとこなかったのですが、今日までそう言われたときの先生の姿が脳裏にあります。

聞き手:では、大石さんから今の高校生にメッセージは?

大石:若いうちに将来に対するイメージを持って、それをめざす人生ができたら理想的ではないかと思います。僕が親しくしていた友人の中には、高校時代からずっと自分がやりたいもの、なりたいもののイメージを持っていて、それを一貫して目指した人がいます。お父さんがお医者さんで医者になったNや、俳優だったお父さんの跡を継いでいるTとか。それに比べると自分は高校時代に将来への展望やイメージが欠けていました。だから、現在に至るだけでも試行錯誤にすごく時間がかかってしまった。

聞き手:最後に和光へ何か一言。

大石:僕にとって、青春=和光 だったなあ。そのあと理系の大学に行ってまた環境ががらっと変わってしまったこともあって、自由にやりたいことをやれた和光での高校生活は、自分にとってはとても特殊で輝いている時代だったと思いますね。 これからも、自由な校風を大事にしていって下さい。 -ありがとうございました。

(2004年11月掲載)

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プロフィール

大石 彰(おおいし あきら) ロイヤル・コペンハーゲン絵付け師

1977年和光高校を卒業。 1981年関東学院大学工学部建築学科卒業。1986年デンマーク移住。 1996年ロイヤルコペンハーゲン社に研修生として入社。 1998ブルーフラワー部門にて一年従事。 2001絵付け教育全課程を修了、「上絵付け師認可証」取得。 以来上絵付け部門に従事。 2002年には一年間、「サクソンフラワー」製作の大半を担う。 2004年ルクセンブルグにて「フローラ・ダニカ」絵付け実演、 デンマーク皇太子ご結婚お祝い品の製作に参加した。

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