卒業生インタビューvol.14

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今回の卒業生インタビューでは、ネパール舞踏研究家で、ネパール語教室やダンス教室を開き、積極的にネパール文化の普及に携わっていらっしゃる岡本有子さんをご紹介いたします。

(聞き手:和光大学 表現学部 教授 小関和弘)

自分で考えさせられるシーンを沢山つくってくれた和光高校

聞き手:まず、和光との出会いについてお聞かせ下さい。

岡本:中学進学の時、両親が私立をいろいろ探してくれたんです。私も一緒に見学に行くんですが、好き嫌いがはっきりしている性格で、その学校の門を一目見た感じで、嫌だっていうと一歩も入らなかったんです。ところが、和光に行った時には、スッと入れたんです。色んな世代がまぜこぜだったりとか、先生と子どもがにこやかに話していたりだとか、そういうイメージがパァッと目に入ってきて「面白そう!」って思ったんです。それですぐに決めてしまいました。

入ったら、最初に「館山合宿」っていう水泳の合宿があったんです。ところが私、「かなづち」だったので「もうやめたいっ」と思いました。足をわざと折るにはどうしたらいいか、って考えるくらい嫌だったんです。でも、そうする勇気もなく参加せざるを得ませんでした。1年目はやはり泳げませんでした。けれど、2、3年目で泳げるようになり、結局指導員にもなれました。他にも数学ばかり1週間たて割り班で勉強する行事など、もりだくさんで、勉強も嫌いだったのが、すごく面白くなっていきました。

小学校から和光で来た人たちに押され、私たちも毎回発言するように慣らされて、意見を人前で堂々と言うということも学びました。

聞き手:という風に中学から和光で、そして高校、大学と進まれたわけですね。

岡本:ええ。高校ではもっと和光を満喫しました。高校では、自分で考えさせられるシーンを沢山作ってくれる。だから自分たちで判断しなければ行けなくなって、最初は、先生方が「なんて冷たくなっちゃたんだろう…」と思うくらいでした。大学でもそうですが、「和光の自由さをはき違える」人もいるんですけれど、私は逆にそれを満喫できた方で、心おきなく色んな発言をしたし、色んな事を企画したり。企画力を育ててもらえたと思います。

聞き手:どんな大学生活でしたか? 経済学を学び、探検部で活躍なさったと伺っていますが。

岡本:まわりは私が芸術学科へ行くと思っていたらしいのですが、自分が絶対やらなそうなものを今やっておかないと、習う機会はない、経済学は苦手でも知らなきゃ行けないだと思って選んだんです。他学科の授業を取れるのを活かして、人間関係学科の授業をいっぱい取ってましたが、その後、選択が増えた学年になった時は経済の講義も面白かったです。長谷川先生の「発展途上国について」というゼミがすごく面白くて、自分が探検部に入った事とも関係するんですが、アジアとかアフリカの発展途上国に興味を持っていたので、国や地域の背景的なことにも繋げて考えられました。サークルはサークル、勉強は勉強、ではなくて私の中では二つがすごく結び付いていました。

聞き手:大学の勉強が本当に身に付くという感じだったんですね。

岡本:そうです。探検部でモンゴルに行った先輩がいたら、その年の大学祭でモンゴルのテントを再現しようとか、学祭も自分たちの発表の場として捉えていましたね。タンドリー・チキンをやってみようって言って、ドラム缶で焼いたり、都市探検をやろうと、一番身近な鶴見川を選んで、学内外に参加者を募り、小山田の源泉から川崎の港までゴムボートで下りました。

聞き手:なるほど、都市探検とは面白いですねぇ。

岡本:私たちの世代が都市探検をやり始めたんです。防空壕探検をしたり、下水管は許可が下りないんですが、町田市に許可をもらって、職員さんと一緒に和光の下から玉川大のところまで雨水管を探検しました。それにウチの探検部は「文化系」サークルと言われるくらい、染め物をやったり、学校のすみを借りて畑を作ったり、運動関連以外のことも沢山やっていました。

聞き手:探検部がひとつの核となって、いろいろな事に挑戦していくという…。

岡本:「伝統に拘るのはナンセンス」と言って、学祭で奇抜なものをやってビックリさせようと、銭湯をやったこともあったんですよ。ドラム缶風呂のお風呂屋さんを。また、ちゃんとウナギ屋さんで習ってから蒲焼きを焼いて、ウナギ屋さんもやりましたね。

私は好きなことには没頭しちゃうタイプだったんです。休みになれば、1日も無駄にせず旅に出掛けました。寝袋持ってあちこち行きました。踊りも続けてたし、子供たちに関連したボランティア的なことにもたくさん関わっていました。それらが自分の中では全部肥やしになって、無駄なことは一つもなかったと思ってます。忙しくて、充実した大学時代でしたね。

聞き手:さて、それでは踊りとネパールとどちらからうかがいましょうか。2つは繋がっているので、どちらか一方からというのも変だとは思いますが。

岡本:そうですね。踊りは8歳からずっとモダンバレエを習い、高校になってからはジャズダンスをすごい人に習う機会があって。その3年間、ほんと楽しく過ごしてたんです。

高3の卒業式前の休みには、1人で北海道へ旅に行きました。高3の女の子が1人で1ヶ月も北海道を旅しているのが珍しく、出会う人がみんな、よくしてくれて。興味持って私の話をじっくり聞いてくれたし、いろんな話も聞きました。あたりまえのことでしょうが、「世の中にはいろんな考えを持った人が、いろんなことをしているんだ!! 世界って広い!」という事を知った時に、自分は絶対旅を続けていこうと、大学では迷わず探検部に入りました。

バリダンスがポピュラーじゃなかった当時、探検部でバリダンスをやってる先輩がいて「バリ島にダンスを習いに行かないか」と誘われて、大学1年の時、初めての海外旅行へ行ったんです。

そこでは、村人たちが村の娯楽として、また神の教えを伝えていくために、当たり前のように芸能があるんです。村の人は毎週見てるのに、毎回感情移入して、恋愛のシーンではひやかしたり、可哀想な場面では涙を流し、コミカルな場面ではゲラゲラ笑ったり、かじり付いて見てるんです。演じ手ももっと昂揚する。見ている私たちにもそれが伝わるんです。それで、生活の中の生きた芸能って何て素晴らしいんだろう、って思ったんですね。自分が踊っていた踊りとは全然違う踊りがあるんだ、と思いました。そして、「これだ」って思ったんです。民族舞踊でやって行こうと。

日本に帰ってから、バリダンスチームに入ってライブ活動を、最初は楽しくやってました。でも、踊りのステップを覚えてしまうと、当時あまりポピュラーでなかったバリダンスをお金を払って見に来るお客さんたちを前に、自分は何を思って踊ってるのだろうと。ふと考えたら、空っぽだったんですよね。バリ神話のストーリーもよく分からないし、ヒンズー教もよく分からない。ステップをコピーしてるだけだっていうことに気づいて、まるで詐欺をしてるような気になってしまったんです。私が好きになった民族舞踊とまるで違う踊りを私は踊っていたんです。

バリダンスをそのまま究める方向へいけば良かったのかも知れないですけど、自分が全くボキャブラリーのないヒンズー教をゼロから学ぶ気にはなれなかったんです。こんな今の私でも感情移入できる何か、それを見てる人が共感してくれるような民族舞踊が世界のどこかにあるかも知れない、それを全部網羅しようと思って、世界中まわる計画を立てました。本当に全部行くつもりだったので、どこから始めてもよかったんですが、世界で高い所から始めようと、大学2年でネパールに行きました。

踊りが人の活力になるんだ、というのを目の当たりにしたネパールでの生活

聞き手:和光大を卒業されてから、ネパール国立のトリブバン大学に留学しておられますが、その時はまだトリブバン大学には直接繋がらないで、ネパールへいらしたということですね。

岡本:ネパール舞踊とはどんなものだろうと、とにかく村人と一緒に踊ってみようと、言葉も全くできないまま、個人で行っちゃったんです。カトマンズは都会だから、よりティピカルな踊りを求めて奥地に行かなくては、と思いました。

ガイドブックを見ると西部のことは全く書かれていなかったので、じゃあ西がいいだろう、って考えたんです。でも、友達になったネパール人たちが、「ネパールでは外国人とかゲストが来ると、自分の食べ物を減らしてでももてなす習慣がある。西は極貧地帯だから、行くと迷惑をかけるかもしれない」と教えてくれたのです。それで私はカトマンズからバスで9時間、さらに私の足で5日かけた山村に行き、1ヶ月近く滞在したんです。

カトマンズで日本語を話せるネパール人にならった単語をならべ、踊りを習いたい、ホームステイして生活してみたい、暮らしを体験してみたいとお願いしたところ、あるファミリーがこころよく受け入れてくれました。畑を手伝ったり、子供たちと一緒に寝起きをして、村人たちと一緒に踊りました。バリダンスも素晴らしかったですが、ネパールはもっと素朴な踊りでした。神話の踊りもありますけど、人との別れを名残惜しむ歌や、嫁いだお嫁さんが実家に帰ってきてお姑さんたちの悪口や嫁ぎ先の苦労話を歌ったり躍ったりする踊りがあったり、愛情を歌や踊りで伝えたり、喜怒哀楽をそのまま表現した踊りがたくさんあるんです。踊る輪が出来てると、帰ってきた人がフッとそこに自由に入れて、途中でいつでも抜けれる。踊ってないと「どうしたの?」って言われるぐらいみんな踊るっていう感じでした。食べる、寝る、畑仕事をするのと同じように歌う、踊るという行為が暮らしの中に入ってるんですね。躍り好きな私にとってはなんてパラダイスなところだろうって思いました。

聞き手:で、その大学2年の時にネパールが自分の一番波長が合う場所だなという風にお感じになったと?

岡本:ネパールで踊りが人の活力になるんだというのを目の当たりにした時に、じゃあ踊りの原点て何だろうって思ったんです。そしたらちょうど探検部の友達たちでニューギニアに行くという話が出て、そこでなら踊りの原点が分かるかもと思い、ニューギニア島、インドネシア領のイリアンジャヤに行くことにしたんです。大学3年の夏です。

陽が昇ると起き、陽が沈むと寝る、裸で生活し、数字も5までしかなく、6以上は「いっぱい」という言葉で表現して、お腹が空くとイモを焼いて食べるとか、そういうところでした。和光大の工芸学の先生に自主講義をお願いして、習っていた片言のインドネシア語で「踊り」があるかと訊いたら、「ある」と。ダニ族という人たちの村でのことですが、フランス語のような発音のダニ語で、複雑に5層に分かれた美しい歌に合わせた踊りというのが、なんと前後に三歩ずつ動きながら両手を左右に振るだけのものだったんです。でも、それを見た時に鳥肌が立つほど感動したんです。シンプルなのにすごく感動している自分が一番ショックでした。その動きはシンプルなのに彼女たちの気持ちがすごく入ってるし、昔からのものが全部込められて、踊りがステップだけじゃないって事があらためて分かりました。そのとき、バリダンスにしてもネパール舞踊にしても、どこかで自分は形に拘っていたんだなぁっていうのを突きつけられて、今までやっていた踊りが本当に薄っぺらく見えちゃったんですね。

その後、大学卒業してから1年半ぐらいぱったり踊りを止めた時があったんです。でもね、踊りたくてしょうがないんですね。じゃどうしたらいいんだろう、と思って、当時はやり出してた「山海塾」とか、舞踏のワークショップにも行ってみたんです。でも、私には何か不自然な気がして、自分がやりたいのはこれじゃない、という感じでした。かと言って、形だけをコピーして踊るステージは二度とやりたくない。やっぱり自分は自分の踊りスタイルで良いじゃないか、とにかく踊りたいという気持ちは純粋に本当なんだからって思ってですね。やり直すんだったら、野心メラメラ、煩悩メラメラ…じゃなく、縁があって、色んな事を学ばせて貰って、踊りの原点のあるネパールでいこうと、ネパールを再び選んだんですよ。

聞き手:本当にいろんなことが重なり合って、岡本さんの踊りの原点を作っているのですね。 では、最後に、現在の和光生たちに贈る言葉をお願いします。

岡本:私はネパールの大学にも入りました。ネパールでは大学は政治と結び付いていて、トップが替わり、党派が替わると、その度にストライキ。政治に翻弄されてしまう部分がありましたね。良い先生もいましたけど、恵まれた教育環境になっていないんですね。そういうのを経験した時に、日本の大学は何て恵まれてるんだろう、と。大学のみならず、日本は勉強の出来る環境が整っている。本も揃ってるしね。どんなジャンルにも先駆者が居るし、そういう人たちに聞けるじゃないですか。そして、聞いたら、そういう先生たちは喜んで答えてくれたり、自分の時間を割いてまで付き合ってくれる先生もいる。それが和光だともっともっとそういう先生が居て、付き合ってくれる、自分たちがやりたいことをやらせてくれる場があるじゃないですか。だから、ネパールで学びたいのに学べないことを体験した時に、和光の学生は本当に恵まれてるなぁと思いました。

和光に出会えたことを、現役のあいだに「よかった」と思えたらいいなと思いますよ。それには、まず行動しかないですね。先生に何か投げかけてみたり、学祭に参加とかでも自分で何かをやり始めてみる。誰かが何かしてくれるだろうと思っても、何もやってくれないわけです。ただ、みんな、見守ってくれることは間違いない。そのなかでまず行動をしてみることから、自分が見えてくるんじゃないかと思います。

聞き手:今日は長時間どうも有り難うございました。

(了)

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プロフィール

岡本有子(おかもとゆうこ) ネパール舞踏家

ネパール舞踊家、ネパール舞踊研究家、「ネパールソンギートに親しむ会」日本本部会長 1977年 和光中学入学、80年 和光高校入学、87年 和光大学経済学部卒業。 96年~98年 ネパール・トリブバン大学へ外国人初のネパール舞踊留学。 現在、ネパール出身のご主人と一緒に小田急線玉川学園前駅前でネパール料理店「天空の舞い」を経営し、ネパール語の教室とネパールダンスの教室も開いておられます。

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