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生き残った人も72年間ふるさとに戻れていない ~今年の沖縄学習旅行で学び、感じたこと~

和光小学校 校園長ブログ

2学期も残すところあと数日となってしまいました。

1年生は生活べんきょうで「がっこうではたらくひと」で、先生たちや事務室で働く人たちを見つけて、何をしているところかのインタビューをし、自分の周りの小さな社会を感じ取りました。

12月最初の金曜日は2年生げきの会が行われ、『ばんねずみのヤカちゃん』(1組)『女王さまと九人のきょうだい』(2組)、ともにクラスの子どもたちみんなで生き生きとしたげきを見せてくれました。

3年生は東京韓国学校、4年生は横濱山手中華学校をそれぞれ訪問、交流し、異文化(多文化)国際理解としての総合学習「韓国」「中国」への取り組みを進めています。4年生は総合学習「多摩川」を伝える会を控え、その準備にも向かいました。(3年生がインフルエンザによる学級閉鎖のため、「伝える会」は3学期に延期となりました。)

5年生は総合学習「食」のまとめの時期に入り、値段の違うせんべいを食べ比べ、成分表示と値段の関係など、食品問題に目が向き始めました。鶴川駅近く、岡上の田んぼで育てた稲の稲刈り、脱穀、もみすりも終わり、今年も保護者の皆さんのご協力を得て「収穫祭」を行うことができました。

11月18日の公開研究会は「算数」に焦点を当てた研究会となり、どの教員も1時間の授業作りに教員チームでの検討を重ね、子どもたちの学びに向かう姿とともに充実した研究会となりました。

 

6年生の総合学習「沖縄」の取り組みは31年目となり、沖縄学習旅行も31回目を迎えました。学習旅行からもどって1ヶ月あまり、子どもたちはこれまでに学んだことを含め、沖縄で見たこと、聞いたこと、感じたことを自分のことばでまとめ、伝えるという課題に向かっています。1組、2組ともに、保護者の方への「沖縄を伝える会」を行い、3学期には5年生に「伝える会」を行います。

学習旅行から1ヶ月あまりが経ちますが、今年、図らずも4泊5日になった学習旅行の特徴をお伝えしたいと思います。

 

学習旅行1週間前、大型台風21号が通り過ぎたので、今年の沖縄学習旅行は穏やかな天候の中で実施できるだろうと思っていました。

ところが、出発4日前に発生した台風22号が出発日の28日に沖縄に近づき沖縄便が欠航になる可能性が出てきました。急遽、旅行社と相談し、出発を1日早めることにしました。と言っても、航空機の空席、那覇での宿泊など、プロの技で前日の夕方、ギリギリのところで手配していただくことができたのです。

急な変更にもかかわらず、27日の朝は全員揃って沖縄に向かうことができました。この日はバスがないので、雨風が出てくる中、ゆいレール(モノレール)で首里城へ。数年前まで和光小も学習旅行のコースになっていましたが、コースの変更で割愛していたところです。首里城は琉球王朝時代の王府でした。沖縄戦では、この首里城の下に司令部壕が作られ、それ故に、沖縄に上陸してきた米軍の標的となりました。首里城は破壊し尽くされ、沖縄学習旅行が始まった30年前は「守礼の門」しか残っていませんでした。1992年に復元されていますが、沖縄学習旅行で訪れるのは司令部壕跡でした。

6年生が到着すると、ちょうど沖縄学習旅行最終日の和光鶴川小学校の6年生が司令部壕跡で学習しているところでした。両小学校がこのような形で沖縄学習旅行中に出会うことはないのですが、今回、1日早く到着したことで思いがけず鶴小の6年生の姿を目にすることになりました。

風雨がだんだん強くなってくる中、再びゆいレールで「沖縄県立博物館」へ。沖縄の文化、歴史、風俗などが一目でわかる博物館は、これまで学んできた「沖縄」を確認する意味でも是非訪れたいところですが、ここも学習旅行中の日程の中で省略されてきた場所でした。今回、“0日目”ができたため、ゆいレールに乗り、首里城、県立博物館を訪れることができました。

翌日、本来は学習旅行1日目となり、那覇空港から沖縄戦当時の激戦地であった嘉数高台、新基地建設で揺れ動く辺野古を訪れるはずでしたが、航空機はもとより、すべての公共交通機関は運休、高速道路を初めとした幹線道路も通行禁止とあっては、チャーターしていた観光バスはホテルまでの送迎のみの運行となりました。

その状況を予想していた学年主任の増田先生は、嘉数高台でお話をして頂くことになっていた琉球大学の北上田源先生に、前日から連絡を取り、ホテルに来て話をして頂くことをお願いしていました。いつもは空港からのバスの中で、沖縄の米軍基地の話などしてくれる琉球大学の学生さんたちも、北上田先生と一緒にホテルまで来て下さいました。公共交通機関が止まっている台風まっただ中を、北上田先生と6人もの学生さんたちが来て下さったことは、沖縄での学びをできる限り充実したものにしたい、という私たちの願いに応えて下さった結果であり、ほんとうにありがたいことでした。

時間はたっぷりあるこの機会に、と、北上田先生は「沖縄戦を追体験してみよう」と、ワークショップ形式での授業を組んで下さいました。

あの激しい沖縄戦で壊滅的な被害を受けた地域も多かったのですが、その中で、戦前から戦後にかけて住民がどのような運命をたどったか、丹念に調査し詳しい資料が残っている地域があります。沖縄本島の西海岸、那覇からも近い浦添市小湾(こわん)地区です。ここには戦前90戸519名の住民が暮らしていました。1980年代後半、この地域の戦前の集落を再現するプロジェクトができ、地図やジオラマとして、一戸一戸の家をそこにあった植物までも細かく再現し、どんな人が住んでいたのかもわかるようになりました。その資料を基に、家族ごとの詳しいプロフィール(名前、年齢、いつどこへ移動したか、どこで亡くなったかなど)が書かれたカードが、子どもたちのグループに配られました。子どもたちのグループは「家族」となり、カードの裏に書かれた地図と、戦前住んでいた家の形、間取り図、部屋の作りにより、1人1人が「その人」になりました。

「家族」ができたところで、北上田先生から「戦前のある日曜日の朝です。それぞれの家族は何をしていただろう」と声がかかります。6年生の子どもたちはすっかりその気になり、自分の役割を演じます。サトウキビ畑に仕事に行く男性、朝ごはんの支度をする女学生とおばあ、赤ちゃんは小学生の兄に子守りをしてもらっています。ここでNHKスペシャル「戦争の記憶」を観ました。宮城千代さんが戦前を思い出して話をしています。

1940年に沖縄に神社が建てられ、44年8月には日本軍が進駐し、陣地を構築し始めます。多くの兵隊たちが沖縄に来るので、その食糧を確保するため戦闘員とならない子どもや年寄りは本土へ疎開するという計画が立てられたのもこのころでした。疎開船「対馬丸」が米軍の魚雷によって沈没し、子どもたちを含む1400名を超える犠牲が出たのは44年8月末です。戦争のための「人」が必要となり、小湾の人たちも移動を始めます。

ここで沖縄戦のときの行動別に、A~Gのグループに分かれ、時間が進むごとに動いていきます。家族のプロフィールにはその記号も書かれています。

まずAグループ。戦争が始まるもっと前に海外へ移民した人たちです。小湾からは中国やフィリピンなどへ移民する人が多かったそうです。今回は3人です。

1931年からいわゆる「15年戦争」が始まりますが、軍人として海外へ行った人たちがBグループ。中国、フィリピン、台湾、ボルネオ、ニューギニアなど、アジア・オセアニア各地へと向かいました。4人いました。

1944年から九州への疎開が始まります。多くの子どもたちが宮崎や熊本へと疎開しました。Cグループ、11人です。

ここでまたNHKの映像を観ました。子どもやお年寄りが本土へ疎開した後、残った人たちは軍に協力しなければならなかったのです。当時18歳で「防衛隊」になったという方は、「何でも国のため。国のためなら死んでもいいという気持ちだった」と語ります。日本軍は、沖縄決戦のために、17歳から45歳の沖縄の人たちを「防衛隊」として軍に協力させました。沖縄全土で約2万人いた、と言われています。アメリカ軍が撮影した「防衛隊」と見られる写真には、13歳や65歳の男性も写っていましたから、“根こそぎ動員”と言われるように動ける者はだれでも戦闘に参加させたのでしょう。こうして軍に協力した人たちはDグループ、12人です。

さらに沖縄の北部、ヤンバルに疎開した人たちは、小湾地区で130人ほどいたと言います。老人や乳幼児と母親たちで、ヤンバルには日本兵もたくさんいました。Eグループ11人です。

そして、1945年4月、いよいよ米軍が迫ってきたときに小湾に残留していたのはからだの弱いお年寄り達で、残るしかなかったのでした。Fグループです。南部に避難していったのはGグループ。

NHKスペシャル「戦争の記憶」では、4月28日、米軍歩兵部隊が小湾へ迫ってきたときのことを、宮城千代さんが語っています。「戦争は見たことがない。弾(たま)だけしかみたことがない。」と。

AグループからGグループまで、それぞれ生き残った人たちの証言集が手渡され、子どもたちは自分の立場の人の証言を読みました。「自分」が死んでしまったのか、生き残ったのか、捕虜になったのか、戦死したのだとしたらその時期はいつなのか、その記録も確認しました。

戦争が終わり、生き残った人たちは戻ります。と言っても、米軍により収容所へ入れられるのです。

南部へ避難したGグループの35人のうち、生き残ったのはわずか2人でした。家族全員が戻った家はほぼありません。一家全滅の家もたくさんありました。

小湾の人々の戦後が、今の小湾の写真と共に映像に映し出されます。収容所は沖縄の各地に作られましたが、小湾の人たちは北部の収容所へ入れられた人たちが多く、小湾地区はキャンプキンザーとなり、基地のゲートに阻まれて今でも戻ることができません。生き残った人たちも、72年間ふるさとに戻ることができないでいるのです。

キャンプキンザーにしろ普天間基地にしろ、沖縄戦の最中、住民から土地を奪って作った基地です。沖縄の米軍基地は、もともとそこに住んでいる人がいたところに作られた、ということ、「基地があることでお金を儲けている」ということを、もし小湾の人たちだったらどう思うだろう、と北上田先生は子どもたちに問いかけました。

当時、実際に暮らしていた人になり“ロールプレイ”をすることで、家族と離ればなれになること、大切な家族を亡くしてしまうことを肌身で感じることができたのではないかと思います。移民した人たちはほぼ命を落とすことがなかったこと、ヤンバルへ疎開した人よりも南部へ避難した人たちの方がたくさん亡くなっていること、なども時系列で動くうちに、はっきりとわかってきました。

終わった後、子どもたちからは、「家族全員が生き残ってよかった」「家族全員が亡くなって悲しかった」「宮崎へ疎開したけど帰ることができてよかった。疎開先でシラミをからかわれていやだった」「ごはんを取られて飢え死にしたなんて」と、まさにそこに生きた人としての感想が出ました。「人の生活史が削られてしまう。平等じゃないと思った」という意見は、“いのち”の重みを実感したからこそなのでしょう。

学習旅行2日目(今年は3日目)、南部戦跡を追体験した後、沖縄戦で犠牲になった人たちの名前が刻まれている平和の礎 では、「浦添市小湾」と表示されたところへ駆け寄り、「自分」の名前を見つけ、このワークショップの時のことを思い出している子どもたちもいました。

 

台風の影響で座間味島に渡ることができず、座間味で待っていて下さる平田ご夫妻から沖縄戦当時の証言を聞かせて頂くことができなかったのは残念でしたが、大浦湾に面したカヌチャベイのビーチで海遊びをし、グラスボートで辺野古の海の埋め立て工事が進む現場を目の当たりにしました。

お母さんが座間味で「集団自決」を目撃した宮城晴美さん、沖縄戦当時10歳で家族とともに南部を逃げまどい、10人の家族の中で1人だけ生き残ったとう玉木利枝子さんには、ホテルに来て頂いてお話を伺いました。南部戦跡での追体験には、元白梅学徒隊だった中山きくさんも白梅の塔の前で子どもたちに語りかけて下さいました。

いずれも戦争を体験した方たちからのメッセージを、子どもたちはしっかりと受け止め、こころに刻んだことでしょう。お礼に踊るエイサー、歌う「命どぅ宝」からも、そのことは伝わってきました。

3日目(今年は4日目)の夜は学級集会で学んだことを交流し、テーマを決めて話し合います。ここで語られる子どもたちのことばは、“ほんもの”に触れることで感じ取ることができたこと、仲間と一緒に体験したからこそ語り合うことができる内容でした。

またの機会に、子どもたちの沖縄での学びをお伝えしたいと思います。

 

2年生のげきづくり①おはなし・脚本えらび

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和光小学校では、2,4,6年生が毎年劇の会でクラス全員での劇づくりにとりくんでいます。

2年生は2学期に「ていがくねんげきの会」、4,6年生は3学期に「中高学年劇の会」として上演しています。今年も2年生がげきの会で上演しました。

今年の2年生の「げきづくり」の過程をふり返ってみます。 (さらに…)