「自分の命と引き替えにでも あの写真を残さないといけないと思う勇気に感動した」 ~6年生が学ぶ日本の歴史・総合学習「沖縄」~

和光小学校 校園長ブログ タグ: , ,

身近な人から学ぶ歴史

6年生は「お父さん、お母さんが生きてきた時代」「おじいちゃん、おばあちゃんが生きてきた時代」と題しておうちの人に聞き取りをします。その時代に起こった大きな出来事、印象深い出来事など聞き取ったことを出し合い、それを戦後の歴史学習の入り口にしています。

もう十数年前になりますが、私の子どもが鶴小の6年生だったとき、父親である私の夫は、「戦争や平和に関する出来事」として「背嚢(兵隊が背負うカバン)」を挙げ、自分の父親が戦地から持ち帰った背嚢を、壊れたカバンの代わりに持たされたのがいやだった、と書いています。「社会や自分に大きな影響を与えた社会的な出来事・事件」では1970年頃の「学生紛争」を、「印象深く覚えている社会的な出来事・イベント・事件」では1963年の「ケネディ暗殺事件」を取り上げていました。

祖母である私の母は1934年生まれ、敗戦の年は国民学校の5年生でした。「戦争や平和に・・・」では1944年の出来事として「戦死者の遺骨の出迎え」を挙げています。当時、戦地からの遺骨の出迎えは村の人たちみんなで役場まで行ったそうですが、白い布に包まれた箱の中には本人の骨など入っているはずはない、と大人の口から耳に入った、と母は書いています。「社会や自分に大きな影響を・・・」では1947年の「六・三・三制の実施」を挙げました。小学校を卒業すれば女学校へ、と信じていたのに学制改革で新制中学の1年生になりました。3月まで国民学校だった校舎での不自由な学校生活だったそうです。「印象深く覚えている・・・」は「復興博覧会」だとか。年代が書かれていませんでしたが、戦後まもなく大阪で開かれた博覧会だったそうで、奈良県の田舎育ちの母には“人の多さと異様な都会の匂いにびっくり、どんなものが並んでいたか覚えていません。”と書いています。

ちなみに私は子どもの頃あちこちで目にした白装束の「傷痍軍人」のことは忘れられず、また1995年の「阪神淡路大震災」1970年の「大阪万博」のことを書き、次男に持たせたのを覚えています。

 

「引き揚げ」を体験した方から学ぶ

さて、6年1組は、自分のおばあちゃんが「満州からの引き揚げ」を体験したというMくんが聞き取ったことから、歴史の授業が始まりました。

休日授業公開では、導入で「岸壁の母」(1954年 二葉百合子版カヴァーは1972年)を聞き、この歌が、敗戦直後ソ連(当時)に抑留された息子の帰りを、引き揚げ船が着く京都府の舞鶴港で待ち続ける母のことを歌った歌であることを知ります。

なぜ日本人がソ連に抑留されることになったのか、当時の日本とソ連、中国との関係はどうだったのか、を学習し、ソ連からではありませんが、同じように敗戦直後に引き揚げてきたというMくんのおばあちゃん(Mさん)からお話を聞かせていただくことになりました。

当時9歳だったというMさんは、1945年8月9日のことをよく覚えています。旧満州の奉天にいたM さん一家は、ソ連軍から身を守るために「避難所」へ行きます。「収容所」との違いは、避難する人たちが作ったものが「避難所」であり、「収容所」は戦勝国が敗戦国の住民を収容した場所であったということだということが、子どもたちの質問からわかりました。

いきなり町にやってきたソ連兵たちは、日本人から奪った腕時計を大きく太い腕にいくつもはめていたことをMさんは覚えているそうです。

「避難所ではどんな物を食べていたのですか?」という質問が出ました。生きるために必死で、何を食べていたかは覚えていないし、一家団欒ができたこともない、狭い場所にいくつもの家族が集まっているので、ようやく座る場所があったかな、ということでした。

毎日のように何人かの子どもたちが馬車に乗せられてどこかに運ばれていったそうです。おそらく、中国人の家庭にもらわれていったのだろう、ということでしたが、それまでは子どもたちにもいろいろと声を掛けていた大人たちが、何も言わずにそれを見送っていたことに、M さんは大人に対する大きな不信感を抱いた、と言います。

女の子はみんな頭を坊主にして女の子に見えないようにしたのですが、Mさんは、母親から「私が守るから」と言ってもらい坊主にはしなかったそうです。「どうして女の子に見えないようにしなければいけないの?」と言う質問。少し考えて「女の子は炊事ができるとかで働かせることができるからでしょうね」と答えて下さいました。

戦時性暴力はどの戦争の時にも起こり、多くの女性が犠牲になっています。満州、朝鮮半島からの引き上げの時の性暴力も報告されていますが、M さんは6年生には刺激が強いと思われたのでしょう、そのことには触れられませんでした。

そんな避難所での生活を1年間送った後、いよいよ引き揚げ船に乗って日本に帰ることになりました。奉天から港までは天井のない貨車に乗せられ、港からは貨物船に多くの人たちが乗せられたそうです。

2歳の妹を背負うと、Mさんは小柄だったので妹の足がひざの下ぐらいまでになったそうです。「どうしてお母さんは妹を背負わないでお姉さん(Mさん)に背負わせたの?」と質問が出ます。お母さんは大きな荷物と7歳の妹の手を引いていたという話に納得。食糧を確保するためにたくさんのゆで卵を作り、そのゆで卵は7歳の妹が背負ったそうです。

「ゆで卵は腐らなかったんですか?」という質問に、「だめになったのもあったけれど、貴重な食料だったから食べました」と。

栄養状態も衛生状態もよくない貨物船に詰め込まれての引き揚げ、船の中で亡くなった方も多くいました。亡くなった人には「水葬」をしたと言う話に子どもたちは息を呑みます。

ようやく舞鶴港に着くと、消毒のために、と、頭の上から全身にDDTという薬をかけられたのだそうです。そして、汽車に乗って、大分の親戚の家に身を寄せ、ようやく日本での生活が始まりました。

もう30年以上前、藤原ていさん(数学者、藤原正彦氏の母、作家、新田次郎氏の妻)が書いた『流れる星は生きている』を読んだことがあります。旧満州からの引き揚げが想像を絶するような苦難を伴っていたことに、戦争が多くの人たちの生活、人生を狂わせてしまうのだということを心に刻みつけられたことを覚えています。

6年1組の子どもたちは、クラスメイトのMくんのおばあちゃん(Mさん)が体験したことを直接語り伝えていただき、“その時”の状況を想像し、“その場”にいた人たちに思いを寄せます。

「・・・ものすごく混んでいる船に妹をおんぶして乗り、日本まで来たMさんのことを尊敬しています!2歳ってそこそこ重いですもんね。しかもDDTを全身にかけられて・・・鉄道に乗って大分まで行って・・・大分にいる親戚の家に住んだ・・・大変だったんですね。今の私の生活がすごいぜいたくに思いました。いま、シリアの戦争が起きていて、家とかで暮らせない人がいるのに、こんなぜいたくな生活をしているって信じられませんね!これから戦争という大きな間違いをしないように、ちゃんとした人を大臣とかに選んで平和に過ごしたいなと改めて思いました。Mさんのおかげで平和についてもっと学びたいと思いました。」(Nさんの感想より)

 

自分のいのちと引き替えにしても、という勇気

6年生の総合学習「沖縄」は、「入門講座」として沖縄の自然、歴史、ことば、食、音楽などの話を聞いたり、体験したりするところから学習が始まりました。 そして、今年も特別講師として何人かの方をお招きしています。

水中写真家の中村征夫さんのお話からは、沖縄の海の中で息づく生きものたちの姿に圧倒され、赤土の流出によりサンゴが息絶えてしまった様子に、子どもたちは悲しい思いを抱きました。

報道カメラマンの嬉野京子さんにも来て頂きました。復帰前の沖縄で、偶然遭遇した事故。嬉野さんが撮影した米軍車両に轢かれた小さい女の子の写真、米軍統制下ではその写真の流出は許されず、嬉野さんは命からがら東京まで戻ってきます。嬉野さんは、沖縄の現実を伝えなければ、という強い想いに突き動かされ、その後も沖縄に通い続けています。

そして和光小学校の父母でもあった嬉野さんのお力添えもあり、31年前、和光小学校の沖縄学習旅行が始まることになります。

事故の写真を撮影した当時25歳だった嬉野さんですが、沖縄へ行くにはパスポートを必要とし、カメラを持ち込むことも許されなかった時代に、沖縄のことが本土に全く伝わってきていなかったことに愕然とします。

2組の子どもたちからは、「あの写真を撮ったとき、どう思いましたか?」「基地の中に連れて行かれたら手当とかをしてもらえるの?」「尾行されてどこまでしたら逮捕されるの?」「(沖縄から)帰りたい、と思ったことはないですか?」「捕まったときはカメラを持っていましたか?」「祖国復帰行進の人に最近会うことはありますか?」などなど、もっと知りたいことが次々と質問として出されました。

ここでも実際に体験した方から直接お話を伺うことが、その時代の姿が何倍にもなって子どもたちに迫っていくことがわかります。

「・・・その当時、本土では知られてなかった沖縄のことを教えるために、あの手この手を使って、やってはいけないことをなんでやるんだろう?って思ったけど、嬉野さんの話を聞いて、嬉野さんが伝えたいことがわかった。嬉野さんの勇気に感動した。」(Iさんの感想より)

「初めて沖縄に行ってから50年以上経っていてすごいと思いました。沖縄の人の苦しさは日が経つと忘れてしまう。だから写真に納めていくという考えはとてもいいと思いました。ベトナム戦争が激しかった頃は、カメラマンも沖縄に行けないくらいたいへんだったと思いました。申請が通って凄いと思いました。しかし、カメラを持っていると、命が何個あっても足りないという言葉は印象的でした。女の子がひかれた現場を見て、行進団の人と協力をして写真が撮れたのもすごいと思いました。自分のいのちに替えても撮った写真が大切だという言葉は忘れません。」(Aさんの感想より)

 

和光小学校を卒業した青年たちが組織している「和光青年会」、上は40歳近い方から、この春卒業したばかりの中学生まで、エイサーが大好きな卒業生たちが活動を続けていますが、今年も6年生はまず「和光青年会」の先輩たちからエイサーを教わりました。

音楽室にずらりと並んでいる三線に夢中になる6年生も。これも先輩の三線奏者、栗原厚裕さんに「鉄人」で三線を教わっています。

沖縄料理を作り味わう、シーサーを作る、など、実際に“沖縄文化”を体験し、沖縄の魅力に触れていきます。

和光小学校6年生の総合学習「沖縄」は、今年も充実した学習が進んでいます。

和光小学校の資料一式を無料送付いたします。

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