私の名前は憲二。ともに教員であった私の父母は、軍国主義教育の片棒を担いでしまったことに対する深い反省と新日本国憲法への大きな希望をこめて、憲法施行後2年目に生まれた二男に「憲二」を名づけたのだという。
私が「憲二」の由来について母から聞かされたのは小学校4年生のときであった。当時、全国で勤務評定反対闘争が激しく展開されていた。私の生地・群馬はもっとも激しく闘った県のひとつであった。深夜目を覚ますと、隣室には父母のひそひそ声があった。幼心に割って入れない深刻さを感じた。
「大半の校長、教頭が組合を脱けた。これ以上の闘いは無理だ」
「校長、教頭にかけられた攻撃が勤評の本質を示しているではないか」
「ほとんどの県が闘いを終結させた。勤評は時代の流れなのではないか」
「時代の流れであの戦争を許してしまったではないか。憲二にこめた思いをどうするのだ」
そんなやりとりだったのだろうか?
教頭だった父は最後まで組合と行動をともにした。そして、処分された。処分者が新聞発表される前夜に、母は「憲二」の由来を私に話したのだった。母とすれば、私が「犯罪者の子ども」と言われたときのことを心配したのだろうか。しかし、私には「憲二」の由来を聞いた興奮と「おとうさんは立派だった」のひと言しか頭に残っていなかった。翌日、級友たちに「今日の新聞におれのおとうさんの名前が載っている」と自慢してまわる始末であった。
あの日から49年間、日本国憲法はいつも私の身近にあった。いつも誇りでありつづけた。父は9年前に亡くなったが、93才の母はいまも健在である。地域に「9条の会」ができるたびに、平和の語り部として招かれている。戦争体験と日本国憲法について語り、そして「憲二」についても語っているらしい。
以前にも増して「母に負けてはいられない」と思う今日この頃である。
日時: 2008年01月04日 17:22
