学問の自由

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学問の自由

日本国憲法の第二十三条に「学問の自由」という項目がある。これは、とても短いもので、「学問の自由は、これを保障する。」としか記されていない。この項目の前後には、様々に人としての権利が記されている。つまり、「学問の自由」は、「基本的人権」の一つにあたるものである。

基本的人権の一つに「思想の自由」というものがあるが、これは第十九条で「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」と記されている。問題は思想の自由が保障されているのに、なぜ、わざわざ「学問の自由」を別に定めているのか、ということだろう。それは、満州事変に始まる十五年戦争期に(1945年に終わった戦争をどのように表現するかは難しいところがあるけれど、差し当たり「十五年戦争」と呼んでおくことにしよう)、国家権力によって、学問が不当な弾圧を、日本が戦争に突入していった歴史的経緯を踏まえて、「思想の自由」とは別に、わざわざ「学問の自由」を規定したと考えるべきだろう。

遺伝子工学などよる生命操作の研究や、あまりに環境への影響が大きく後戻りできないような変化をもたらす研究が、「学問の自由」の名の下に認められるのか、など学問の自由にはいくつか論点があるが、歴史的経緯を踏まえれば、「学問の自由」というのは、「権力批判の自由」と理解すべきであろうと考える。健全な批判が許されない社会がどのような道を歩むのか、私たちは過去にいくつも例を持っている。

 

その「学問の自由」が政府によって侵害される事件が起きた。昨年の10月1日のことだ。法律上は「会員は、第十七条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」とされているのに、総理大臣が6人の学者の任命を拒否したというものだった。そのうちのお一人が、加藤陽子さんという日本近現代史の研究者で、私もその優れた著作に親しんでいる方だった。第一報を聞いた時、率直に「どうして?」と思わざるを得なかった。

そもそも、学術会議の会員の任命は、公には形式的なものとされていて、今回の任命拒否は、恣意的な法解釈を政府が行っていることに他ならないのではないか。私たちは、そのことにもっと危機感を持つべきだろう。ルールに基づかない統治が行われる時、どのようなことが起きてしまうのか。大きな混乱と民主主義の破壊が行われることは明らかである。

 

この問題が起きた時に、政府の行っていることは、あまりに矛盾に満ちていて、そのうち収束するのではないか、と思っていたが現在に至るまで解決していない。それどころか、当初はマスメディアの扱いもそれなりだったが、アメリカ大統領選挙・トランプ大統領の居座り・新型コロナウイルス感染症の拡がりなど他のニュースの中に埋もれていき、ほとんど話題にならなくなった。そういうメディアの取り扱いも問題だ。重要な問題を繰り返し丁寧に提起していく責任があるのではないか。

先日、1月28日に、学術会議側は再び6人の任命を求めたが、政府は何の理由も説明せず「既に終わったことだ」と官房長官が述べて幕を引こうとしている。その後もまた、この問題は緊急事態宣言の解除やワクチン接種のニュースに埋もれてしまっている。今、改めて私たちはこの問題の重要性を考えるべきではないか。

 

最後に、一私立学校の校長に過ぎない私がなぜここで自分の見解を明らかにするのか、述べておきたい。それは、私たち和光学園が自由な教育を目指している学校だからである。教育の自由は学問の自由からも由来している。「教員の地位に関するILO、ユネスコ※勧告」(1966年)には「教員は職務の遂行にあたり学問の自由(Academic freedom)を享有すべきものである」(61条)とあり、最高裁の、とある判決でも「学問の自由には、教育の自由が制約があるとは言え含まれる」とされているからである。

十五年戦争期、日本で学問の自由が失われていったとき、教育の国家統制が強まっていった。学校は、戦争を支える役割を強く担わされた。そのような歴史を繰り返してはならない。

 

※ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)

国際連合の専門機関の一つで、諸国民が教育・科学・文化の協力と交流を通じて、国際平和と人類の福祉を促進するための組織

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